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スティーリー・ダン ブラックカウ Steely Dan - Black Cow (Song & Lyrics) [スティーリーダン]



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スティーリー・ダンの歴史において、最も商業的に成功したアルバム!1977年の「彩(エイジャ)」(Aja)のA面1曲目「Black Cow」(ブラック・カウ)。

まあ、元々、作家志望でライブを好まないスティーリー・ダンの中心人物、ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはこのアルバムの3年ほど前、メンバーのジェフ・バクスターとジム・ホッダーを解雇。ライブ活動を完全に停止しており(ジェフ・バクスターはその後、ドゥービー・ブラザーズに加入)、その後、ライブ活動を再開する時は、スティーリー・ダンというそれ以前はバンドだったのが、マイケル・マクドナルドやジェフ・ポーカロをサポートにした、ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカー二人によるユニットに、スティーリー・ダンは様変わりし、ライブ活動よりスタジオ・レコーディング、良い曲、良いアルバムを作りたいドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはトム・スコット、ラリー・カールトン、チャック・レイニー、バーナード・パーディー、スティーヴ・ガッドら名うての!ジャズ、フュージョン系のメンバーを集めるわけであります。

で、その集大成とも言えるアルバム!こちら「彩(エイジャ)」(Aja)は、数十10人に及ぶ、それら凄腕ミュージッシャンが参加しており、サクソフォーン奏者ウェイン・ショーターによるソロ、ドラマーのスティーヴ・ガッドによる巧みなドラム演奏など、ロックファンというより当時のクロスオーバー(後のフュージョン)ファン達から高く評価されたアルバムでした。

ちなみに、アルバムのジャケットに写っている女性は、日本人モデルの山口小夜子さん。

思えばスティーリー・ダンは「バンド時代から」、ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカー二人+セッションミュージッシャンのユニットに変わってからも、たいていアルバム、或いはシングルカットしたシングルもヒットしているわけで、70年代を通し、1980年の「ガウチョ」(Gaucho)を最後に、実質、解散するわけですが(その20年後、「トゥー・アゲインスト・ネイチャー」(Two Against Nature)を劇的に発表しますが)安定して売れ続け、常に高い評価を得たアメリカンバンド(?)は、そうそういなかったのではなかろうか?と思ったりいたします。






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ディープ・パープル ゲッティン・タイター Deep Purple-'Gettin' Tighter'-1975 [ディープパープル レインボウ]





メンバーチェンジによる不安を一掃した1974年の「紫の炎」( Burn )のシングル、アルバム両大ヒットと、それに続く同年発表の「嵐の使者」(Stormbringer)の好感触で、第三期ディープ・パープル盤石なりと思っていた当時のファンにとって、青天の霹靂だった!看板ギタリスト、リッチー・ブラックモアの脱退声明。

後任ギタリストにトミー・ボーリンが参加。1975年発表された、当時のディープ・パープルのラストアルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste the Band)収録の、おそらくリッチー・ブラックモアが忌み嫌い、ボーカルのデヴィッド・カヴァデール、ボーカル&ベーシストのグレン・ヒューズが目指したかった、ファンクビートを取り入れたハードロックスタイルのソレだと思われる、「ゲッティン・タイター」(Gettin' Tighter)。

いきなりのファンキーなリズムギターは、当時のハードロックバンドとしては革新的な、ドゥービー・ブラザーズやファンク、クロスオーバーグループの常套手段のカッティングが心地良いわけですが、こういうサウンドをリッチーはやりたくなかったのでしょう。

1984年にレコードレビューした、ファンクとヒップホップを、パンク・ロックやハードロックなどと混ぜ合わせた、ミクスチャー・ロックと呼ばれるサウンドを提供したレッド・ホット・チリ・ペッパーズ以降のロックファンには、別段どうというサウンドではないように聴こえると思いますが、当時のハードロックファンには、ロックにとってブルースやR&Bは良いが、同じ黒人音楽でもソウルやファンクは「外様」のサウンドであり(このへんはリッチーと感覚は同じ)、又、ソウル、ファンク、クロスオーバーファン達は「あのハードロックのパープルが」何をやってんだ?みたいな冷淡な評価しか受けず、ツアーは日本含め各地で大盛況だったようですが評価はさんざんであり、脱退したリッチーのレインボウのようなサウンドをディープ・パープルに求めていたファン達は、アルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste the Band)のサウンドを受け入れず、レコードセールスも低調。

ディープ・パープルは結局、解散してしまったわけであります(後に再結成しますが)。






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ユア・シックスティーン/リンゴ・スター You're Sixteen - Ringo Starr [リンゴスター]





ザ・ビートルズ解散後の1970年代前半、ジョン・レノンやポール・マッカートニーと肩を並べるほどリンゴ・スターは大ヒットを飛ばしていたわけで、こちら元ビートルズのメンバーが、アルバム参加とはいえ、全員の名前が解散後初めて!揃った事で話題沸騰だった1973年のアルバム、「リンゴ」(Ringo)からのシングルカット、「ユア・シックスティーン」(You’re Sixteen)は、前年のジョージ・ハリスンとの競作「想い出のフォトグラフ」(Photograph)に続いて!堂々!全米1位を獲得した曲。

そしてアルバム「リンゴ」(Ringo)も又、全米1位を獲得しております。

ザ・ビートルズや当時の元ビートルズメンバーとなると、全米全英1位なんて「当たり前」の雰囲気があり、特にザ・ビートルズに関しては、むしろ、全米全英1位を獲得してない曲は何れ?ぐらい「当たり前」なわけですが、一般的に考えると全米も全英も、日本も他欧州でも打ち上げ1位を1曲でも獲得するというのは、もの凄い快挙で、巨大マーケットの全米ビルボードチャートでトップ10入りをしたら、もうその楽曲、バンド、シンガーは誉れなわけで、リンゴ・スターから元ビートルズという肩書きを外すと、やはりこれは快挙なのであります。

が!ポール・マッカートニーを抜かすと、音楽業界から身を引いた(専業主夫)ジョン・レノンは元より、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターのレコードセールスは70年代後半になると陰りがみえはじめ、特にリンゴ・スターは1976年に古巣EMI/アップルを離れ、アトランティック・レコードに移籍、自らのレーベル、リング・オー・レコードを設立してからの、その凋落ぶりは酷く、1977年のアルバム「ウイングズ~リンゴIV」は、ビルボードアルバムチャートで100位圏外という結果に終わり、早々に売上不振を原因に、アトランティックから契約を打ち切られてしまいます。

その後、アルコール依存症等にも陥り、リンゴ・スターが全米全英、そして日本のヒットチャートで名前と楽曲を聴く事がなくなっているので、1970年代半ば頃が思春期のまっただ中、洋楽に触れる初期衝動だった、次世代のザ・ビートルズファンのリアルな想い出に、リンゴ・スターやジョージ、ジョンの印象は乏しいので、この世代のザ・ビートルズファンは、ウイングス、ソロのポール・マッカートニー贔屓の方が、とても多いように感じますが(特に女性)、それもいたしかたない事なのだろうと、歴史を鑑み思う次第。






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ボズ・スキャッグス ハード・タイムス Boz Scaggs Hard Times [ボズスキャッグス]



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60年代後半にクリームで大ブレイクしたエリック・クラプトンより、70年代にブレイクしたボズ・スキャッグスの方が1才年上なわけで、1976年発表のアルバム「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)がバカ売れした時、ボズは既に32才。

で!ボズ・ズキャッグスのデビューアルバムは1965年に発表されてるわけで、この年はエリック・クラプトンがヤードバーズをやめ、代わりにジミー・ペイジの紹介で無名のジェフ・ベックがヤードバーズの後釜ギタリストに加入し、ジェフのキャリアがスタートした年。

ボズのデビューアルバムは不発に終わり、当時のホワイトブルース、ブルースロック(ハードロック)ムーブメントにボズは乗れず、その後スティーヴ・ミラー・ブルースバンドを経て、1969年、オールマン・ブラザーズのデュアン・オールマンとの競演アルバムをボズは発表。それでも未だ!ボズがブレイクする事なく、ボズはこの後、1970年代初頭の黒人音楽の新しいムーブメント、ニューソウル、ニューファンク路線に標準を合わせたサウンドを模索するわけで、その甲斐あってアルバム「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)で大ブレイクしたわけですが、随分とその間、時間がかかっております。

こちらシングルカットされ、まずまずのヒットだった「ハード・タイム」( Hard Times)は、その三十路を越えて売れたボズの大ヒットアルバムの翌年発表されたアルバム、「ダウン・トゥ・ゼン・レフト」(Down Two Then Left)に収録されていた曲で、「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)と、こちらもかなり売れた1980年発表の「ミドルマン」(Middle man)の間に挟まれ、ファンの方以外では印象の薄いアルバムなのが、この「ダウン・トゥ・ゼン・レフト」(Down Two Then Left)ですが、思うに「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)が32才にして初めて!バカ売れし、一躍!世界的な有名人になったボズ・スキャッグスには、さぞ!次回作に対するレコード会社とファンの大きな期待のプレッシャー、重圧があった事でしょう。

シングル「ハード・タイム」( Hard Times)は、時代的にこの後の空前のディスコブームに突っ走る
世の中の風潮で、「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)からシングルカットされ、こちらもバカ売れした「ロウダウン」(Lowdown)に通じるファンキー路線ゆえ(こちらは、かなりハードファンクっぽいですが)、それなりに売れましたし、AORの旗手的にレコード会社やマスメディアにボズは担がれていたので、その人気は「ミドルマン」(Middle man)発表迄、3年も次作は空いてしまうわけですが、衰える事はなかったわけであります。






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ママのファンキー・ロックンロール/スージー・クアトロSuzi Quatro Your Mama Won't Like Me [スージークアトロ]





1973年から74年にかけ、イギリス、日本等で連続ビッグヒットを飛ばしていた(何故か?本国アメリカでは売れなかった)、スージー・クアトロのシングル8曲目(日本では7曲目)、1975年発表の「ママのファンキー・ロックンロール」(Your Mama Won't Like Me)。

聴いての通り、それまでのR&R色強い楽曲と違う、こちらはファンキーナンバー。この2年後の1977年には、大規模な日本ツアーを成功させる、日本で抜群の人気を誇っていたスージー・クアトロですが、シングルレコードの売り上げが下降気味になるのは、このへんからだったかな?という記憶が、当サイト運営者はあります。

「ママのファンキー・ロックンロール」(Your Mama Won't Like Me)も、それ以前のR&Rナンバーの大ヒットの勢いで、それなりの小ヒットにはなりましたが、1975年は後が続かず、1976年にはスージー・クアトロのシングル発表は、丸々1年間、途絶えております。

日本とイギリス等では、スージー・クアトロのR&Rは大人気だったのに、本国アメリカで何故かヒットしなかったのが原因なのか?、アメリカで大流行りしていたニューソウル、ニューファンクの影響と思われる、こちら「ママのファンキー・ロックンロール」(Your Mama Won't Like Me)で、ちょっとスージー・クアトロはイメージチェンジをはかりましたが、当時、日本の踊り場、ディスコシーンは、コモドアーズのバンプ、ヴァン・マッコイのハッスル、ザッツ・ザ・ウェイでお馴染みのマイアミのKC&ザ・サンシャインバンド等が人気で、ファンキー路線のスージー・クアトロのこちらの楽曲は使われる事もなく、アメリカでもやはりヒットには至らなかったわけです。

それでも!イギリス同様、日本では未だ未だ人気だったので、レコードの売り上げに歯止めがかかった不振の1975年、そして1枚もシングルレコードを発表しなかった1976年の翌1977年、日本で大規模ツアーをスージー・クアトロは行い、その日本ツアーのライブレコードも発売され(日本独自盤?)、翌、1978年には文金高島田姿で日本で結婚式をあげるほどの親日家ぶりを、スージー・クアトロは見せてくれましたが、スージー・クアトロが唯一!全米ヒット(最高位4位)を飾る1979年、スモーキーのクリス・ノーマンとデュエットした「メロウな二人」(Stumblin' In)は、あまり日本では売れなかったような記憶があります。

その名の通り、こちら「メロウな二人」(Stumblin' In)に、かつてのレザーの上下でベースを抱えR&Rをシャウトするスージー・クアトロの姿はありませんでした。






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ブロンディ ハート・オブ・グラスBlondie Heart Of Glass [ブロンディ]





1979年、空前のディスコブームの最中、日本のディスコでも人気の高かった曲で、それ以前からニューヨークパンクのように音楽誌に紹介されてた、けっして!売れてはいなかったブロンディが、大グレイクしたのがこちら、イギリスとアメリカでも堂々1位を獲得した「ハート・オブ・グラス」(Blondie Heart Of Glass)。

パンクとビートッポップのバンドスタイルで、テクノとディスコサウンドをやったという感じでしょうか?。正に!時代、70年代の終焉、80年代を予兆させる楽曲だと当サイト運営者は感じますが、レコードジャケットは彼女しか写ってなかったりしたので、バンド名ではなく彼女をブロンディと思ってる人も多かったりする、セックスシンボル的扱いもメディアに受けていた(バンドの営業戦略?)看板シンガーのデボラ・ハリーは、この時既に!34才。

音楽活動は長く、かつてのアメリカ人女性(ニュージャージー出身)の典型とも言えるフォークグループからスタートし、1970年代初頭に3人組のガールグループ「スティレットーズ」に参加。そのバックバンドのメンバーだったクリス・スタインらとともに1976年ブロンディを結成するわけで、ブロンディ結成時には既にデボラ・ハリーは三十路を越えていたと。

まあ、なかなか曲調のお気楽な雰囲気と違い、デボラ・ハリーはこちらの曲で大有名になるまで、商業的大成功を収める迄、時間がかかってるわけで、ブロンディはこの曲から、電子音楽によるディスコサウンド作りの巨匠!ジョルジオ・モロダー(ドナ・サマーの仕掛け人ですね)と一緒に作った、1980年の「コールミー」の同じく大ヒット交え大成功を収めますが、好事魔多し。デボラ・ハリーと長いつきあいのクリス・スタインが白血病にかかっている事が判明。デボラ・ハリーはその看病に当たる事を決め、バンドは1982年に解散(再結成しますが)。

ちなみに1979~1980年に遅咲きでブレイクしたニュージャージー出身のデボラ・ハリーは、1973〜1974年頃、日本とイギリスで大人気になり、日本とイギリスで商業的大成功を収めた(アメリカでは不振)デトロイト出身のスージー・クアトロより5才も年上であり、スージー・クアトロの連続ヒットのロックナンバーの勢いが、やや衰えてきた頃、彼女は「ママのファンキー・ロックン・ロール」という、1970年代初頭、アメリカで大人気だったニューソウル、ニューファンクの流れを汲むサウンド、ファンキーナンバーを発表しており、もし!「ママのファンキー・ロックン・ロール」が、それ以前のスージー・クアトロの楽曲と同じぐらい売れていたら、案外、スージー・クアトロもそのままの路線で、ブロンディのようなロックとポップスとディスコとテクノを合わせたようなサウンドを、80年前後提供し、売れていたかもしれないな〜なんて思ったりいたします。






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スティーブ・ミラー・バンド ユー・センド・ミー Steve Miller Band - Fly Like An Eagle - 09 - You Send Me [スティーヴミラーバンド]





サム・クックの名曲をスティーヴ・ミラー・バンドがカバーしたわけですが、こちら収録の1976年発表されたアルバム「鷹の爪」(Fly Like An Eagle)。そのB面、不朽の名作!ビルボード1位を獲得した、ご機嫌なロックナンバーの「ロックンミー」(Rock'n Me)から、こちら「ユー・センド・ミー」(You Send Me)と続く曲の並べ方は素晴らしく、オリジナルのR&Rナンバーの後にR&Bのカバー。良い流れでした。

アルバム「鷹の爪」(Fly Like An Eagle)は、元々は60年代後半、ホワイトブルースマンとしてそのキャリアをスタートさせた(スティーヴ・ミラー・ブルースバンド)スティーヴ・ミラーの、3年ぶりになるアルバムで、同年同時期、元スティーヴ・ミラー・ブルースバンドのギタリストだった、ボズ・スキャッグスの大ヒットアルバムになった「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)が発表されているのは、注目でございます。

スティーヴ・ミラーのアルバム「鷹の爪」(Fly Like An Eagle)は、ビルボード最高位3位。シングル「ロックンミー」(Rock'n Me)は1位で、ボズの「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)はビルボード最高位2位、シングルカットされた「ロウダウン」(Lowdown)は最高位3位。

双方、甲乙つけがたいほどアメリカでは大ヒットしたアルバム、シングルでしたが、日本では独特のリズムギターを聴かせる(ポール・マッカートニーが大好きだそう)R&R、R&B色強いスティーヴ・ミラーバンドのアルバム「鷹の爪」(Fly Like An Eagle)、シングル「ロックンミー」(Rock'n Me)の認知度、ヒット状況は、その少し前から同じ黒人音楽をルーツに持ちつつ、ニューソウル、ニューファンク寄りのサウンドに取り組んでいた、ある種その完成形とも言えるボズ・スキャッグスのアルバム「シルク・ディグリーズ」(Silk Degrees)、「ロウダウン」(Lowdown)は、比較にならないほど低かったのは、否めません。



何故?日米で同じ黒人音楽をルーツに持ち、ブルースを根底にした二人のアルバム、シングルが、これほど評価、売り上げで当時、差がでたのか?、、、まあ、当サイト運営者は、正にこれこそがあの時代の、日本の若者の空気の証明だったと、語れば一晩中でも語ってしまうほどですが、それを一気に捲したて書くと、あまりに長文になるので、そのへんはボズの楽曲のページ、スティーブ・ミラーの別の楽曲のページを参照していただけると、幸いでございます。

こちらは、サム・クックの「ユー・センド・ミー」( You Send Me)オリジナルヴァージョン。↓







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フリー ミスタービッグ Free Mr Big [フリー]





ブルースブーム吹き荒れる1960年代後半に、イギリスで結成されたフリー。

1968年発表のデビューアルバム「トンズ・オブ・ソブス」(Tons Of Sobs)は、商業的に不発なれど、1969年、当時カリスマギタリストであったエリック・クラプトンがクリーム解散後、同じくクリームのジンジャー・ベイカー、スティーブ・ウィンウッド等と結成したスーパーバンド、ブラインド・フェイスのアメリカ公演の前座をつとめた事で、知名度がアップしたそうで、同年発売のセカンドアルバム「フリー」(Free)が全英チャートのトップ30入り。

そして翌1970年発売のシングル「オール・ライト・ナウ」が全英2位、全米4位の大ヒットになり、サードアルバム」「ファイアー・アンド・ウォーター」(Fire And Water)も英米で大ヒット!。こちら「ミスタービッグ」(Free Mr Big)は、こちらのアルバムに収録されており、日本でもコアなニューロックファン達の間で、フリーの名前は一気に広まるわけです。

で、何故?コアなニューロックファンと限定するかと言えば、翌1971年のフリー来日公演は、神田共立講堂、サンケイホール規模だったからで(前座は成毛滋グループ、モップス)、同時期のシカゴやレッド・ツエッペリン、BS&Tが日本武道館、グランド・ファンク・レイルロードに至っては後楽園球場だった事を思うと、少し公演会場は小規模だからで、当時、一般的なポップスファン、洋楽ファンまでは、フリーの名は轟いていなかったのかな?と思うからであります。

まあ、唯、このフリー来日公演の1971年は、シングル「ステイラー」、4枚目のアルバム「ハイウェイ」(Highway)は不発に終わり、人気のピークは去っていた感もなく、来日公演のフリーの演奏、ステージの評判は素晴らしいソレだったようですが、なんと!来日公演後、解散。

ここでフリーがピリオドをうっていたら、本当に短命なグループだったわけですが、僅か9ヶ月後の翌1972年2月には再結成。日本の山内テツ氏と、キーボードのラビット(ジョン・バンドリック)が新たに加入。再結成したわりにアルバムタイトルは意味深な「フリー・アット・ラスト」(Free At Last )を発表。その後アンディ・フレイザーは脱退。山内テツ氏が正式メンバーになり、人気の高かった(今も?)ギターのポール・コゾフを抜かした陣容で、エマーソン・レイク&パーマと二度目の来日。山内テツ氏は凱旋帰国を飾ったわけであります。

で、前作はラストではなく再び、1973年アルバム「ハートブレイカー 」(Heartbreaker)を発表後、フリーは自然消滅。完全に終るわけであります。






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カーペンターズ イエスタディ・ワンスモア Yesterday Once More 訳詞付-Carpenters [カーペンターズ]





R&Rリバイバルというのが、1970年前後、世界で吹き荒れてたわけで、80年代になると日本の原宿、代々木公園でR&R、オールディーズをラジカセでかけ、若者が路上で踊るというムーブメントが起きる、そのとっかかりになっていたのが、この時代のR&Rリバイバルムーブメント。

グラムロックもその一貫であり、日本のキャロルもそんな時代背景に登場してきたわけで、そのR&Rリバイバルの決定的な流れ、古き良きアメリカ、ラジオから流れてきたあの素敵な曲、あの時代は懐かしいでしょという、ある種のR&R、オールディーズの定番のソレを作ったのが、こちらカーペンターズの1973年発表のアルバム「ナウ・アンド・ゼン」(Now & Then)であり、B面のオールディーズ集を収めた1曲目、そのオールディーズ集を紹介する為のオリジナル曲だったのが、こちら「イエスタデイ・ワンス・モア」 (Yesterday Once More)。

当時、カーペンターズはもの凄い!日本で人気があったグループで、多分、一番!洋楽で人気、売り上げがあり、このアルバムからの「シング」 (Sing)が又、爆発的なヒット曲も記録し、その人気に拍車をかけ、そしてこちら「イエスタデイ・ワンス・モア」 (Yesterday Once More)も大ヒットしたわけであります(もう1曲、アルバム収録のジャンバラヤもシングルカットされヒットしてました)。



同1973年、当時は未だ無名だったジョージ・ルーカスの映画「アメリカン・グラフィティ」(American Graffiti)が発表され、上映当時、それほど日本の映画会社が大々的に宣伝費かけロードショー上映したわけではない、唯、制作が当時、空前の大ヒットになった「ゴッド・ファーザー」で新進気鋭の映画監督と注目されだしたフランシス・F・コッポラだったので、少し注目されていた程度。本国の映画会社も「しょうもない映画を作りやがって」程度の評価しかなかったこの映画が、この後、70年代、日本では延々!全国の名画座で上映され続ける、脅威のロングヒット映画になり、日本のR&R、オールディーズ、50sというジャンルが確立され、その流れで、80年代になって原宿、代々木公園の所謂「R&R族」に繋がるわけであります。

だから!カーペンターズのアルバム、そしてシングル「イエスタデイ・ワンス・モア」 (Yesterday Once More)と、映画「アメリカン・グラフィティ」(American Graffiti)とそのサウンド・トラックレコードを知らずして、アメリカンオールディーズ、R&Rもあったものではなく(シャナナの功績等もありますが)、例え!R&Rのとっかかりが「永ちゃん最高!」であったり、横浜銀蝿に触発されたにしろ、礼儀として、歴史として知っておかないといけないと、当サイト運営者は思うわけであります。




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アース・ウインド&ファイヤー 灼熱の狂宴 Earth, Wind & Fire Power, Africano, Happy Feelin's, Live in 75 [アースウィンド&ファイヤー]




1975年発売の2枚組ライブアルバム「灼熱の狂宴」(Gratitude)から、1枚目のA面を飾った「アフリカーノ」 (Africano)、「パワー」 (Power)、「ヤーニン・ラーニン」 (Yearnin' Learnin')と続く、グルーヴ感溢れる演奏!アル・マッケイのリズムギターも誠に!心地良い!。アース、アル・マッケイここにあり!の名アルバムでございます。

1970年代初頭のクロスオーバー寄りのサウンドの頃は、商業的に成功したと言えないアースでしたが、1974年のアルバム「太陽の化身」(Open Our Eyes)あたりから、よりファンク色を全面にだし、アルバムA面1曲目の「宇宙よりの使者」(Mighty Mighty) 、翌1975年の「暗黒への挑戦」(That's the Way of the World)から、同じくA面1曲目の「シャイニング・スター」(Shining Star)が、 当時は未だ踊り場シーン、コアな黒人音楽ファンの間でのムーブメントでしたが、ジェームス・ブラウンのThe J.B.'sやクール&ザ・ギャング、オハイオ・プレイヤーズ、BTエクスプレス等の大型ファンクバンドの所謂ニューファンクムーブメントの最中受け、アースの名前は日本でも知られるようになっていきました。

そして、同じく1975年発表されたこのライブアルバムからシングルカットされた、「シング・ア・ソング」 (Sing a Song)も踊り場のDJに使われ、アルバムもコアなファンクファンに支持され、アースの人気は爆発前夜。

1976年のアルバム「魂(Spirit)からのシングルカット「ゲッタウェイ」(Getaway)が、踊り場で人気になり、1977年、アルバム「太陽神」(All 'N All)からの「宇宙のファンタジー」(Fantasy)が、踊り場シーンのみならず、一般的なポップスファンにも好評を得、日本で大ヒット!。アースの名前は遂に!日本中で知られるようになったわけであります。

ただ、それまで、こちらのアルバム「灼熱の狂宴」(Gratitude)前後の、強烈なファンクスピリッツ溢れる演奏をしていたアースを好んでいたコアな黒人音楽ファンや踊り場フリークたちは、この後、空前のディスコブームが吹き荒れる最中、今も当時のディスコフリークには人気の高い曲々なれど、アースもそのブームに「迎合してる。媚びてる」と、アースのサウンドが極端なディスコサウンドに変わっていった事を、批判中傷するようになり、このディスコサウンドのアースファンと、それ以前のアースファンは、若い人からみると同じ「おっちゃん、おばちゃん」でも、分離してるとみて間違いないですね。

アース、モーリス・ホワイトの「白人、大衆迎合」路線は、Pファンクのジョージ・クリントンも又、否定的でしたが、結局、80年代になってアースの「売り」でもあった管楽器隊をひっこめ、完全な電子楽器によるディスコサウンド路線を打ち出してから、アースの人気は頭うちになってしまい、このへんは墓穴を掘ってしまった感もなきにしも非ずでしたが、このアルバム当時のアースの演奏力、グルーヴは、誠に!衝撃でありました。






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