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ジャック・ブルース、ミッチ・ミッチェル ラリー・コリエル Jack Bruce, Mitch Mitchell, Larry Coryell live 1970 [エリッククラプトン クリーム]





1968年末にクリームを解散してソロアルバム発表後、ジャック・ブルースはジミ・ヘンドリックス&エクスペリアンスのドラマー、ミッチ・ミッチェルと、この後、70年代、ジャズ、クロスオーバーギタリストとして脚光を浴びるラリー・コリエル、キーボードにマイク・マンデルの4人でグループを組んでおり、このメンバーで1枚ぐらいアルバムを公式に出していれば、70年代のロック、クロスオーバーの歴史も又、若干変わっていたのではなかったか?なんて思ったりいたします。

ロック親爺にはお馴染みのクリーム時代の曲もやっておりますが、まあ〜ラリー・コリエルは当時からラリー・コリエルだったんだなーなんて、当サイト運営者、マヌケな感想を持ってしまいますね(笑)。

60年代から既にジャズとロックの融合をやっていた。そういうジャズ側のアプローチを最も早い時期にやっていたギタリストが、The Free Spiritsというバンドで、アルバム「Out Of Sight And Sound」を発表したラリー・コリエルだった。



というのがジャズの世界の歴史の定説になっておりますが、40~50年代盛況を極めたジャズ人気も、ザ・ビートルズ登場以降の60年代は、R&B、R&R(ロック)を大衆は支持するようになり、ジャズ人気は衰退。商業的マーケットの中心になっていたロックシーンで、ロックというフィールドで3人のイギリス人プレイヤーが、ブルース、ジャズ、クラシックの要素を取り入れたクリームが、ラリー・コリエルと異なり、圧倒的に大衆に支持されたわけで、もし!クリームでカリスマ人気だったエリック・クラプトンが、ブルーススタイルのソロを弾くギタリストではなく、ラリー・コリエルのようなジャジーなフレーズも弾くギタリストだったら、おそらくそれがその後の「ロックギター奏法」の基本になっていたわけで、それほど当時の「エリック・クラプトン」というブランドは、世界的に大影響を与えたわけであります(ジミ・ヘンドリックスしかり)。



結局、クリーム解散後、エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーが、スティーヴ・ウインウッド等と結成したブラインド・フェイスは、スーパーバンドともてはやされ、今もロック親爺達には想い出深いグループなわけですが、クリームでヒット曲を書き歌を歌っていたベーシストのジャック。伝説ではなかなか我の強い人間と伝わっているジャックの事、内心(我こそクリーム)という思いがあったとしてもおかしくないわけで、もしジャックのこちらのグループが、スーパーバンドと人気になり、ライブアルバムでも良いのでアルバムの1枚でも残していたら(公式に)、同時期、ジャズ人気の低迷と、同胞アフリカンアメリカンのファンクの人気スター!スライストーン、ジェームス・ブラウンの影響、ロックの人気、商業的成功の影響で、かの!マイルス・デイビスが、それまでのアコースティックジャズを辞め、電子楽器を導入。所謂クロスオーバーをやりだしたのですから、ロックからもジャズからも歴史に残るアルバムになっていた事でしょう。

ジャックは更に!今度はジョン・マクラフリンの在籍するアメリカのトニー・ウィリアムスのトリオ、ライフタイムに参加後、再びラリー・コリエルと一緒にやったりするテクニシャンぶりを示すわけですが、殆どロックシーンでは注目されず(ジャズ人気の停滞)、旧知のグレアム・ボンド等と自身のバンドを結成。活発にライブ活動を行いますが、クリームを期待するファン層と折り合いがつかなかったのと、アルバムセールスの不振などで1972年に頓挫。

結局、ジャックはエリック・クラプトンタイプのブルースロックスタイルの、人気のマウンテンのレズリー・ウエストとコーキー・レイングとトリオを組み、ロックファンに久々に注目され、特に日本では人気のクリームとマウンテンの合体ゆえ、当時流行りの!スーパーバンドと大いに期待され、圧倒的なロックキッズ達の支持を得ましたが、1973年にグループはあえなく解体。この後、ジャックはザ・ローリングストーンズを脱退したミック・テイラー等とグループを組みますが、ジャックがロックシーンから、なんとなーく消えてしまったのは、この時期だったと記憶しております。




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ブラック・ナイト(ディープ・パープル)Deep Purple Black Night [ディープパープル レインボウ]



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1994年に缶コーヒーのCMで使われていたので(ディープ・パープルヴァージョンではない)、若い人でも聴き覚えのある曲だと思われます。1970年「ディープ・パープル・イン・ロック」( Deep Purple in Rock ) のプロモーション用シングル盤として企画されたのが、こちら「ブラック・ナイト」(Black Night)。

ニューヨーク・シンフォニーの指揮者のジョセフ・イーガーとの競演を果たした、後にEL&Pを結成するナイスのキース・エマーソンにライバル意識を持っていたそうなジョン・ロードの強い要望で、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの競演アルバムを発表後、同じイギリスのレッド・ツエッペリンのアメリカでの大成功に触発されたリッチー・ブラックモアの提言、「強力なリフとビートによるハードロック」路線に、ここからバンドの主導権をリッチーがとりだし、突っ走るようになった、まあ、「ブラック・ナイト」(Black Night)は記念すべき1曲と言えるわけであります。

まあ、有名な話しですが、新たなハードロック路線の「ディープ・パープル・イン・ロック」( Deep Purple in Rock ) を録音終了後、アルバムを売る為のプロモーション用にもう1曲とマネージャーに言われても、今まさに!アルバムを作り終え、ある種「出がらし」になってるディープ・パープルのメンバーに、そう簡単にそんなキャッチーな曲が作れるわけもなく、リッチー・ネルソンヴァージョンの「サマータイム」を参考にして作った(リフ?)と伝わっておりますが、メロディや歌い方などはブルース・マグースの「ウィ・エイント・ガット・ナッスィング・イェット(We Ain't Got Nothing Yet)」の方が、似ていると思いませんでしょうか?

Rick Nelson - Summertime


Blues Magoos - We Ain't Got Nothing Yet


イギリスでチャートの2位までのぼり、日本でも異例の!大ヒットシングルになった「ブラック・ナイト」(Black Night)により、70年代、おそらく日本で一番!人気のあった、商業的にも成功したであろうディープ・パープルの1970年代はスタートするわけで、GSブームが終焉した日本では、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズのメンバーからなる、人気者のジュリー、沢田研二氏とショーケン、萩原健一氏のツインボーカルの日本版「スーパーバンド」PYGのライブアルバムで、A面トップがこちら「ブラック・ナイト」(Black Night)のカヴァー。

また、70年代半ば頃迄、生バンドが入っていた踊り場(その後のディスコ)に出演していたバンドは、「ブラック・ナイト」(Black Night)は定番ナンバーであり、ディープ・パープルのレコードも踊り場で人気の高い曲でした(独特のステップがありました)。









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甘い罠 チープ・トリック Cheap Trick - I Want You To Want Me (Budokan Live) [チープトリック]





わりとおりますが、特に!1977年デビューのアメリカのチープ・トリックは、デビュー当時は全くアメリカで人気を得られず日本で人気者になったグループで、1978年の日本公演を収めたライブアルバム「チープ・トリックat武道館」(Cheap Trick at Budokan)に火がつき、1979年にこのアルバムが全米チャートで4位までのぼる大ヒットアルバムになり(当初は日本からの輸入盤だった)、チープ・トリックは大成功を収めるわけですから、この史実に日本人は自分達の耳とセンスと嗅覚(?)、自信を持っても宜しいのではないでしょうか?。

80年代になってカルチャー・クラブを聴いた時、(あれ?チープ・トリックの「甘い罠」みたいだな)なんて感じた記憶が当サイト運営者ありますが、アメリカでは全く売れなかった1977年のセカンドアルバム「蒼ざめたハイウェイ」(Color)収録の、日本で大ヒットしたこちら「甘い罠」(I Want You To Want Me)も、大ヒットした日本に遅れる事1年、同じ理由で全米7位を記録したわけですね〜。

で、当然、アメリカでは人気がなく日本で最初に大ブレイクしたチープ・トリックですから、日本人好みの曲を日本公演でセット・リストに選んだそうですが、その後、アメリカでもブレイクしたこちら「甘い罠」(I Want You To Want Me)は当初、セット・リストには入っていなかったそうで、日本の担当ディレクターが日本で大ヒットした曲だからと推し、入れたそうですから、世の中、何が幸いするかわからないものでございます。

アルバム「蒼ざめたハイウェイ」(Color)のジャケットは、ボーカルのロビン・ザンダーとベースのトム・ピーターソンが、颯爽とバイクにまたがってる「すかした」カッコいいそれで、何で?メンバー4人いるのに、如何にも!ロックバンドメンバー系の二人を全面にしか出さないんだ?如何に商売とはいえ酷いバンドだなーなんて思っておりましたが、ちゃんと!裏ジャケットに残りの二人、あまりロックバンドのメンバーには見えない(笑)、ギターのリック・ニールセンとドラムのバン・E・カルロスが自転車に乗って映っており、このセンス、かなり好きでした(笑)。






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フリートウッドマック ブラック・マジック・ウーマン Fleetwood Mac Peter Green - Black Magic Woman (Live Boston Tea Party) 1 [フリートウッドマック]





サンタナがラテンパーカッションを導入、ジプシージャズの「ジプシークィーン」とメドレーで繋ぎ合わせ、大ヒットさせた!マイナーブルース、「ブラック・マジック・ウーマン」(Black Magic Woman)。オリジナルはこちら、ロック親爺には今も熱い支持を受けているイギリスのホワイトブルースマン、ピーター・グリーン在籍時のフリートウッド・マック。

エリック・クラプトン在籍時のクリームが、世界的に人気になった事で、エリック・クラプトンがクリーム以前に在籍していた、又、ザ・ローリングストーンズに、ブライアン・ジョーンズの後釜で加入したミック・テイラーも在籍してた、それもイギリスのホワイトブルースバンドだという事で、特にヒット曲も日本ではなかったわりに、ロックファン、ギタリストに人気の高いジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズ。そこのこちらもメンバーだった、ピーター・グリーン(ギター)とミック・フリートウッド(ドラム)が中心になって、1967年、ブルースロックブーム吹き荒れるイギリスで結成されたのが、フリートウッド・マック。

そしてマイナーブルースの名曲!こちら「ブラック・マジック・ウーマン」(Black Magic Woman)は、1968年に発表されたわけで、1969年録音の、実質ザ・ビートルズのラストスタジオ録音になった、アルバム「アビイ・ロード』(Abbey Road)のA面ラスト、「アイ・ウォント・ユー」( I Want You (She's So Heavy))のポール・マッカートニーのベースラインは、影響を受けたのではないか?と思われます。或いは一番!イギリスのブルースロックブーム、或いはR&Rリバイバルに感心があったらしい、曲を作ったジョン・レノンが「こんな感じで弾いてほしい」とリズムの例として、もしかしたらフリートウッド・マックの「ブラック・マジック・ウーマン」(Black Magic Woman)を例えに出したのか?。あくまでも想像の域を出ませんが、時代背景を考えると、そんな想像を当サイト運営者は膨らませてしまいます。

結局、当時ありがちだった!ドラッグと精神疾患で、70年代に入るとピーター・グリーンはバンドを離脱してしまい、ブルースロックから出発したフリートウッド・マックは、度重なるメンバーチェンジと音楽趣向の変革を70年代は繰り返し、1977年、日本では同時期、バカ売れしたイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」(Hotel California)の影に隠れてしまった感は否めませんが、アメリカでは31週に渡りビルボードアルバムチャート1位を記録する大ヒットアルバムとなった「噂」(Rumours)を発表。シングルカットされた「ドリームス」(Dreams)も全米チャート1位を記録する、グループの最盛期を迎えるわけであります。






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ビリー・ジョエル Billy Joel/ストレンジャーThe Stranger [ビリージョエル]





まあ〜所謂「おかまダンス」ですね。

アメリカは勿論、日本でもビリー・ジョエルの名を一躍有名にした、踊り場→ディスコに完全に流れてきた、この後の空前のディスコブームのとっかかりになる1977年、ビリー・ジョエル通算5枚目のアルバム「ストレンジャー」 (The Stranger)のタイトル曲。このアルバム、シングルの成功によって旧作の「ピアノ・マン」(Piano Man)等も再評価され、この後のアルバム「ニューヨーク52番街」(52nd Street)も売れに売れ、当時、日本ではボズ・スキャッグス、ボビー・コールドウェルなどと共に、ちょっと大人の洒落た「AOR」と言わ、同じようにもてはやされましたが、近年、ビリー・ジョエルをAORとはあまり言わないようです。

で、こちら「ストレンジャー」 (The Stranger)は、アルバムは北米でも(最高位2位)日本でも売れまくりましたが、時期的にパンクブーム吹き荒れていたイギリスでは、そこそこ(全英は24位)。タイトル曲の「ストレンジャー」 (The Stranger)がシングルカットされヒットしたのは、なんと!日本だけだったそう。

「ストレンジャー」 (The Stranger)の翌年1978年、それ以前からのビージーズのディスコサウンドアプローチ同様、本来、あまり踊り場、ディスコとは関係のなさそうなバリー・マニロウの「コパカパーナ」、ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」、ザ・ローリング・ストーンズの「ミスユー」がディスコヒットしており、ロッドやストーンズは勿論イギリスですが、既にディスコマーケットはイギリスに限らず、スウェーデンのアバをはじめ、フランス、ドイツ勢も参入しており、本家北米アフロアメリカンのアースウインド&ファイヤー、クール&ザ・ギャングも、それまでのファンク路線からディスコサウンドに路線を変更。ソロになったマイケル・ジェクソンも売れに売れ、空前の!ディスコブームがやってきたわけでございます。







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悲しみのアンジー(Angie) ザ・ローリング・ストーンズ [ローリングストーンズ]





1970年代になり、解散してしまったザ・ビートルズと違い、ザ・ローリング・ストーンズは新加入のギターヒーロー、ミック・テイラーを加え、「スティッキー・フィンガーズ」(Sticky Fingers)、2枚組の「メイン・ストリートのならず者」(Exile on Main St.)の、日本でもオリコンチャートのトップ10に入る、今もロックフリーク、ストーンズファンには評価の高いアルバムを発表。健在ぶりを示しておりました。

そんなザ・ローリング・ストーンズがジャマイカで録音したそうな、アルバム「山羊の頭のスープ」 (Goats Head Soup)を発表するのが1973年。シングルカットされ欧州圏の国々や全米では堂々1位に輝き、母国英国チャートでも5位を記録、そして日本でも 折からの歌謡史に残る!空前の和製ふぉーくブームの最中という事もあり、曲調が「ふぉーくのコ」にも好まれたせいか売れたのが、こちら「悲しみのアンジー」(Angie)。

同年1973年が例の、ストーンズ初来日公演中止騒動の年でした。

キース・リチャーズとミック・テイラーによる魅惑のギター演奏に、キーボードには以前からストーンズのレコーディングに参加していた、第一期ジェフ・ベックグループのニッキー・ホプキンス。彼のキーボードもかなり!「悲しみのアンジー」(Angie)、効いてるのは誰でもわかりますね。

当時、ミック・テイラーはそのルックスの良さもあり、女性に人気が高く、又、カリスマギタリストであったエリック・クラプトンの後釜として、クラプトンがクリーム以前に参加していたバンド、ブルース・ブレイカーズに加わったという、クラプトン系列のホワイトブルースの「保証書つき」ギタリストでもあったので、ギターキッズ、ロックファンの男のコにも人気がありましたが、ミック・テイラーは翌年1974年末にストーンズを脱退してしまい、今も「キースとミック・テイラーがギタリストの時代のストーンズが、一番良かった」と、懐かしく言うロック親爺、多いです。






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レアアース アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・セレブレート Rare Earth - I Just Want To Celebrate 1971 + Lyrics. [レアアース]





日本では「ゲット・レディ」の一発屋。下手すると「ゲット・レディ」も日本独自のヒットとか思われてたりする(汗。1970年全米4位)レアアースですが、全米トップ10入りヒットは他にもあり、こちら「アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・セレブレート」( I Just Want To Celebrate)も、1971年全米7位まで上ったヒット曲で(日本ではヒットしませんでしたが) 、1999年のジョージ・クルーニー主演の映画「スリー・キングス」のOPで使われリバイバルしておりますし、かつて山下達郎氏DJのラジオ番組で、この曲を流していた時(流石!山下達郎氏!)と、当サイト運営者、感銘を受けた覚えがあります。


スリー・キングス 予告編

白人ロックバンドでありながら、モータウン・レーベルと契約したレアアース。正に!モータウン・レコードが1970年前後、サウンドが変革していった、白人ロックやスライ&ザ・ファミリーストーンのスライストーンのファンクとロックの融合の影響をモータウン・レコードも受けていた、これは証明の歴史であります。

で、何の証言も資料もありませんが、当サイト運営者の野性的な直感で(笑)、レアアースの「ゲット・レディ」は全米でもヒットしましたし、それなりにライブも集客があったようなので、多分、グランド・ファンク・レイルロードの「アメリカン・バンド」を、ドラマーのドン・ブリュワーにドラムを叩かせながらVoをとらせるアイデアをプロデューサーのトッド・ラングレンが思いついたのは,、レア・アースのドラムを叩きながら歌うドラマー、「ゲット・レディ」のヒットの影響ではないか?と思っております。






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レアアース ゲットレディ Rare Earth Get Ready LIVE1973 [レアアース]



ロリポップ!★104種類もの面白くて可愛いドメインがたくさん♪
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踊り場ファンにはあまりにも有名な曲、生演奏の「ケントス」やDJダンクライベントでも今も人気の曲ゆえ、又、踊り場、ディスコに行った事がない方々でも知ってる有名な曲、グループなので軽んじられる、甘くみられる楽曲、グループですが、1969年に黒人R&B系のモータウン・レーベルが、こちら異色の白人グループ(ロックバンド)と契約したという歴史、侮ってはいけないわけで、それまでのヤングアメリカン、R&B系のモータウンサウンドと、70年代になってからの、特に!この「ゲットレディ」の大元のヒットグループであるテンプテーションズで顕著な、サウンドの変貌。

モータウンが当時、白人社会で大流行だったニューロック、アートロックの盛況、そのマーケットを狙ってレアアースと契約したと想像すると、その後の70年代になってからのモータウンサウンドの変貌の理由がよくわかる、その記念すべき第一弾がこのレアアースだったと考えると、また、このレアアース、レアアースヴァージョンの1970年、全米ビルボード4位の大ヒットになった「ゲットレディ」(Get Ready)、聴き方、見方が変わってくると思われます。

当時のニューロック、アートロックと言われたロックバンドは、古の黒人ブルースナンバーを題材に、ジャズのごとく長いソロ、インプロビゼーション(即興演奏)を得意とし、ライブは元よりアルバムまで、その長いソロが収録されていたりしたわけで、題材がブルースがR&Bに変わってるだけで(ジミ・ヘンドリックスは両方得意だった)、レアアースのやっていた事はニューロック、アートロックと言われたロックバンドと同じだったわけで、1973年と記されてるこちらのライブ会場をみていただけばわかる通り、大盛り上がり。モータウンが「新規事業」をやりたがっていたのは、このライブの盛況とニューロック、アートロックのアルバムの好調な売り上げを、モータウンでも商業的に取り入れたかったからと考えて、間違いないでしょう。

レアアースのアルバム「ゲットレディ」(Get Ready)を聴いた方ならわかると思いますが、有名なシングル「ゲットレディ」(Get Ready)のオープニングとフェイドアウトの後半、観客の歓声が入っているのは、あの後、ながーい!21分半もあるソロ、インプロビゼーション(正直、長すぎるかもです)が入っている、あれはライブヴァージョンを編集したソレでございます。






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ジョン・レノン スターティング・オーヴァー (Just Like) Starting Over - John Lennon [ジョンレノン]





1980年代の幕開けは、1月16日、ウイングスを率い来日、日本公演を行う予定だったポール・マッカートニーが成田空港で、大麻所持による逮捕劇でスタート(公演は勿論、中止)。9月25日のレッド・ツエッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムの不慮の死。そして12月4日、サウンドの要とも言えるジョン・ボーナム亡き後のレッド・ツエッペリンは考えれないという感じでしょうか?バンドは正式に解散。

更に続く12月8日のジョン・レノンの暴漢による射殺という事件で、ザ・ビートルズ解散直前から再三再四!、ファンの願望による出ては消えての「ザ・ビートルズ再結成」は、これにて完全に消滅したわけで、60年代70年代初頭から中期の洋楽、ニューロックファンには、80年代は明るい幕開けではありませんでした。

半ば音楽界から引退同然だったジョン・レノンの5年ぶりのスタジオオリジナル録音、久々の新作にして遺作になった、アルバム「ダブル・ファンタジー」 (Double Fantasy)、シングルカットされた、こちら「スターティング・オーヴァー」((Just Like) Starting Over)は全米全英共にアルバム、シングルチャートで1位を獲得。アメリカのビルボード集計によると、ジョン・レノンのソロ作の最大のヒットシングル曲は、こちら「スターティング・オーヴァー」((Just Like) Starting Over)だそう。

ところが!日本ではオリコンアルバムチャートは2位でしたが、こちらシングル「スターティング・オーヴァー」((Just Like) Starting Over)は最高37位で、英米はじめ世界6ヶ国で1位、他4ヶ国でトップ10入りしているのに対し、日本のこのオリコンチャート最高位は、ちと情けない。

まあ、時代がテクノ全盛時代、パンクからニューウェイブ、そして空前のディスコブームのど真ん中だった事もあり(でも同じディスコブームでも、アメリカでは1位になっていた)、また、60年代のザ・ビートルズファンや70年代初頭、中期のニューロックファンが、1980年になるともう、ちょっと大人になり過ぎて、所謂ヒットチャートの世界とかけ離れていたのも原因だったかも知れませんが、ジョン・レノンの死という衝撃の大事件だったわりに、今にして思えば、わりと世間は静かだったような記憶がありますし、同年解散宣言したピンク・レディーや、その2年前のキャンディーズの後楽園球場で行われた解散コンサート「ファイナルカーニバル」の方が、ジョン・レノンの死より一般的には、盛り上がってたような気もします。

あまり2013年現在、昨今のAKB48の狂乱人気を、当時若者だったオッサンは言えないですね(笑)。対称がAKB48か?ピンク・レディーかキャンディーズか、はたまたこの後のおニャン子クラブかの違いなだけで。あまり日本人は今も当時も、変わってない(笑)。






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ブロンディ コールミー Blondie/Call Me [ブロンディ]





1976年のデビュー当時後は、ニューヨークパンク的なグループと紹介されていたような記憶のあるブロンディですが(殆ど日本ではヒットしなかったですが)、1979年の「ハート・オブ・グラス」(Heart of Glass)と、こちら1980年のリチャード・ギア主演の映画「アメリカン・ジゴロ」の主題歌でもあった、こちら「コールミー」(Call Me)のヒットにより(共に全米、全英1位)、何時しかボーカルのデボラ・ハリーがディスコクィーン、セックスシンボル的に扱われたグループのブロンディ。

まあ、80年代になるとシンディ・ローパーが三十路過ぎて大ブレイクいたしましたが、こちらブロンディのデボラ・ハリーが「ハート・オブ・グラス」(Heart of Glass)でブレイクした時、既に34才であり(1945年生まれ)、70~80年代の日本は当時(昨今も?)ティーンエイジャーのアイドル歌手全盛時代でしたので、アメリカと日本のエンターテイメントの感覚の差、違い、日本でしたらこのパターンは「苦節何年!」の演歌の世界なわけですから、考えさせられます。


American Gigolo(アメリカン・ジゴロ)-Call Me by Blondie

ブロンディのパンク、ディスコ、レゲエのリズミカルなサウンドを電子音楽の乗せる手法は、この後、1980年代のビートポップの先駆けという感じでしょうか?、、、かなり80年以降のバンド、シンガー、音楽プロデューサーにそのサウンド、又、デボラ・ハリーのファッション、影響を与えてると思われます。

1979~81年に盛況を極めますが、看板ボーカルのデボラ・ハリーのソロ活動、女優活動の影響なのでしょうか?1982年にバンドは解散(再結成しておりますが)。今も1980年前後が思春期、洋楽の初体験世代には、強烈な印象を残してるグループ、シンガーではないでしょうか?。






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