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ママのファンキー・ロックンロール/スージー・クアトロSuzi Quatro Your Mama Won't Like Me [スージークアトロ]





1973年から74年にかけ、イギリス、日本等で連続ビッグヒットを飛ばしていた(何故か?本国アメリカでは売れなかった)、スージー・クアトロのシングル8曲目(日本では7曲目)、1975年発表の「ママのファンキー・ロックンロール」(Your Mama Won't Like Me)。

聴いての通り、それまでのR&R色強い楽曲と違う、こちらはファンキーナンバー。この2年後の1977年には、大規模な日本ツアーを成功させる、日本で抜群の人気を誇っていたスージー・クアトロですが、シングルレコードの売り上げが下降気味になるのは、このへんからだったかな?という記憶が、当サイト運営者はあります。

「ママのファンキー・ロックンロール」(Your Mama Won't Like Me)も、それ以前のR&Rナンバーの大ヒットの勢いで、それなりの小ヒットにはなりましたが、1975年は後が続かず、1976年にはスージー・クアトロのシングル発表は、丸々1年間、途絶えております。

日本とイギリス等では、スージー・クアトロのR&Rは大人気だったのに、本国アメリカで何故かヒットしなかったのが原因なのか?、アメリカで大流行りしていたニューソウル、ニューファンクの影響と思われる、こちら「ママのファンキー・ロックンロール」(Your Mama Won't Like Me)で、ちょっとスージー・クアトロはイメージチェンジをはかりましたが、当時、日本の踊り場、ディスコシーンは、コモドアーズのバンプ、ヴァン・マッコイのハッスル、ザッツ・ザ・ウェイでお馴染みのマイアミのKC&ザ・サンシャインバンド等が人気で、ファンキー路線のスージー・クアトロのこちらの楽曲は使われる事もなく、アメリカでもやはりヒットには至らなかったわけです。

それでも!イギリス同様、日本では未だ未だ人気だったので、レコードの売り上げに歯止めがかかった不振の1975年、そして1枚もシングルレコードを発表しなかった1976年の翌1977年、日本で大規模ツアーをスージー・クアトロは行い、その日本ツアーのライブレコードも発売され(日本独自盤?)、翌、1978年には文金高島田姿で日本で結婚式をあげるほどの親日家ぶりを、スージー・クアトロは見せてくれましたが、スージー・クアトロが唯一!全米ヒット(最高位4位)を飾る1979年、スモーキーのクリス・ノーマンとデュエットした「メロウな二人」(Stumblin' In)は、あまり日本では売れなかったような記憶があります。

その名の通り、こちら「メロウな二人」(Stumblin' In)に、かつてのレザーの上下でベースを抱えR&Rをシャウトするスージー・クアトロの姿はありませんでした。






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キャンザキャン スージー・クアトロ Suzi Quatro - Can The Can [スージークアトロ]





いやー!何時観ても聴いても、ス−ジー・クアトロはカッコいい!!

何時も思うのですが日本人受けする白人女性のフェイスって、あると思うんです。スージー・クアトロとランナウエイズのチェリー・カーリーはその典型で、共に本国アメリカではそれほど売れなかったけれど(スージー・クアトロはイギリスはじめ欧州では売れた)、日本ではバカ売れした共通点もあります。

「キャン・ザ・キャン」(Can The Can)は、この後、Tレックスと匹敵するぐらいの日本のポップチャート、ヒットチャートではヒット曲の常連。スージー・クアトロの名を日本に知らしめた、一連のヒット曲連発の日本第一弾、1973年のヒット曲でした。

アメリカの当時のヒットチャートを調べてみると、ニューソウル、ニューファンクとシンガーソングライターが圧倒的に強く、日本は逆にシンガーソングライターはウケましたが(日本も空前の和製ふぉーくブームのとっかかりの頃でしたので)、ニューソウル、ニューソウルはそうでもなく、逆にアメリカではウケなかったスージー・クアトロやTレックスのR&Rは、イギリスと同じようにバカ売れだったという、各国の微妙な好みの差があります。

レザーの上下に身を包みベースを抱え腰を引きながらシャウトするスージー・クアトロの姿は、リアルタイム、同じくレザーの上下でベースを抱え腰を引きシャウトする日本のキャロルの矢沢永吉氏にも通じるものがなきにしもあらずの想い出が、当サイト運営者が今もあります。




スージー・クアトロは親日家でも知られており、当時バック・バンドのギタリストと結婚した時は(後に離婚)日本で着物を着て和式の結婚式を行ったのは、当時、雑誌「ミュージックライフ」でも紹介されているたので、古のロック、洋楽ファンなら見た記憶があると思われます。

子供二人を育てたスージー・クアトロは、近年もイギリスとドイツで暮らし、BBCラジオ2で毎週ロック・プログラムのDJを務め、ミュージッシャンとしてのツアーも継続しているようで、若くして死ぬのもロッカーとしては伝説になってカッコいいですし、引退して静かに暮らすのも素敵だと思いますが、ママさんロッカーとして生き続けるスージー・クアトロの人生も、これもまた!ロックなのではないか?なんて思ったりしております。






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スージー・クアトロ/Suzi Quatro - The Wild One (1974) [スージークアトロ]



リアルタイムでスージー・クアトロもワイルドワンも知らない方でも、TV、ビートたけし氏の「お笑いウルトラクイズ」で使われていたので、聴き覚えのある方、多いのではないか?と思われます。


グレイテスト・ヒッツ
時は1960年代後半から吹きあれた、「R&Rリバイバルブーム」の真っただ中。第一期ジェフ・ベックグループでそれを確立したブルースロックではない、何か新しい事を初めたかった英国のギタリスト、ジェフ・ベックのモータウン・スタジオでのセッション、レコーディングのために同行していた音楽プロデューサーのミッキー・モストによって、スージー・クアトロは高い評価を受ける。1971年末、ミッキーを頼ってスージーは渡英。

こんへんの経緯はその数年前のジミ・ヘンドリックスにスージーも似ております。

唯、ジミと決定的に異なったのが、英国、オーストラリア、そして日本で大人気、大ヒットになったスージーでしたが、何故か?本国アメリカでは、ジミのように「凱旋帰国」商業的大成功を収められなかった事で、みての通りルックスも良い、演奏力もあり歌も上手く曲もキャッチーでグルーヴィーでイカしてるのに、何故?アメリカで受け入れられなかったのか?、今も管理人には謎でございます。

日本でも73年の「キャンザキャン」Can The Canの大ヒットを皮切りにヒットチャートの常連、ビッグヒットを連発していたスージーでしたが、管理人の記憶ではこちら「ワイルドワン」The Wild Oneが最後のビッグヒットだったのではなかったか?。Tレックスと同じく、この後、急激にスージーの人気は日本で下降してしまうわけですが、この後、スージーはアメリカマーケットを狙いポップ路線にかわり、スモーキーのクリス・ノーマンとのデュエット・シングル「Stumblin' In」が思惑通り、78年にアメリカチャートにめでたく入る事に成功するも、R&Rのスージー好きだった日本と英国では、殆ど反響はありませんでした。



みての通りのレザーの上下でベースを抱え歌うスージーの姿というのは、同時期の日本のキャロルの矢沢永吉氏にも通じるものがあり、キャロルは公式デビュー前のザ・ビートルズをイメージしたジョニー大倉氏による発案で、レザーの上下にポマードスタイルだったわけで、別にスージー・クアトロを真似たわけではないのですが、シンクロニシティ、海の向こうでも、同じような発想でスージーがレザーの上下で、R&Rリバイバル(グラムロックも基本的にはR&Rリバイバル)ブームに乗って登場していたのは、感慨深いものが管理人は今もありますし、スージーはバック・バンドのギタリスト、レスターと日本で着物を着て和式の結婚式を挙げてたほど日本贔屓で、この模様は当時、ロックジェネレーションの為の音楽雑誌「ミュージックライフ」に掲載されてたのが、今も懐かしいです。

「なぜベースを選んだのですかって?そりゃ、股間にひびくからよ」(Byスージー・クアトロ)





スージー・クアトロ・ストーリー


サディスティック・ロックの女王



グレイテスト・ヒッツ


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日本とイギリスで1970年代、抜群の人気を誇っていたスージー・クアトロ  48 Crash Suzi Quatro [スージークアトロ]





1973年、UKチャート3位、日本でも「キャンザキャン」に続き大ヒットしたナンバー!。グラムロックブーム吹き荒れる日英で、日本のサディスティック・ミカバンドやキャロル同様、衣装はレザーの女性ロッカー、カッコ良くて可愛いスージー・クアトロは大人気で、この曲がヒットしていた時、彼女は未だ22〜23才。この映像はそれですね。

黒のレザーに身を包みベースを弾き歌い彼女と、同じ衣装でベースを弾き歌うキャロルの矢沢永吉氏が、当時、思いっきり!管理人はリンクしておりました〜。



スージー・クアトロはアメリカ人ですが、英国のジェフ・ベックのモータウン・スタジオでのレコーディングのためアメリカに来ていた音楽プロデューサー、同じく英国人、ハーマンズ・ハーミッツやアニマルズ、ドノヴァン等のプロデューサーのミッキー・モストによって高い評価を受け、1971年末、ミッキーを頼って渡英したそうで、このへんの経緯はジミ・ヘンドリックによく似ておりますが、残念ながらスージー・クアトロは日英では大人気になりましたが、本国のアメリカでは、ジミ・へンドリックスのような凱旋帰国、大人気にはなれなかったんですね。。

70年代初頭のアメリカはブラックパワー、ニューソウルやニューファンクが大躍進してた時期で、内省的なシンガーソングライターブームもあり、グラムロックが入いる隙がなかったのか?、このへんは日本や英国とお国柄の違いなのでしょうか?、管理人には謎の部分です。何故なら、そのわりにはR&R、50sリバイバル、映画「アメリカングラフィティ」は大ヒットし、一躍ジョージ・ルーカスは天下をとり、そのサントラ盤も売れに売れたのですが、何故か?R&Rリバイバル、グラムロックブーム、両方にスージー・クラトロは乗れずに、アメリカではあまりヒットしなかったからです。

実に不思議です。何故なんだろ?。未だにわからない、コレが「神の領域」なのでしょうか?。

管理人、個人的にスージー・クアトロほどカッコイイ女性ロックンローラー、カッコイイ楽曲集はないと、今も昔も思っているのですが、、、。





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