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オールマン・ブラザーズ・バンド Allman Brothers Band - Ramblin' Man [オールマンブラザーズ]





オールマン・ブラザーズ・バンドは、デュアン・オールマン存命時の、不朽の名ライブアルバム!「フィルモア・イースト・ライヴ」(At Fillmore East)が人気がとても高いですが、デュラン亡きあと(バイクによる交通事故)ディッキー・ベッツが中心になって放った1973年の全米大ヒットナンバー「ランブリンマン」(Ramblin' Man)収録の、こちらのアルバム「ブラザーズ・アンド・シスターズ」(Brothers And Sisters)がオールマン・ブラザーズ・バンドの最大のヒットアルバム(全米1位)。

オールマン・ブラザーズ・バンドは、そのライブアルバムでの黒っぽく粘っこいブルースを奏でるイメージが強いので、こちら白人のC&Wの世界の「ランブリンマン」(Ramblin' Man)は、アメリカで大ヒットしたわりには、日本でリアルタイム、それほど売れた、大人気だったという記憶がありませんが(勿論!それなりにヒットはしましたが)、誠に!名作であります!。

このアルバムのセッション中、デュアンに続きベーシストのベリー・オークリーが、デュアンと同じオートバイ事故で他界してしまう、バンドは不幸に見舞われますが、新ベーシストにラマー・ウィリアムズを入れ、無事アルバムを完成させ、そしてアルバム、シングル共にアメリカで大ヒットし、オールマン・ブラザーズ・バンドのアメリカでの人気は、頂点に達したようでありました。

しかし、後のイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」の大ヒットで、その人気は頂点に達した後、解散に向かって突っ走ったように、オールマン・ブラザーズもこのシングル、アルバムの大成功でアメリカでの人気が頂点に達した3年後の1976年、解散してしまうんですね(その後、再結成、解散、再々結成)。

まあ、この当時はロックバンド、ロックミュージッシャンは「短くも美しく燃え」みたいなのが、世界の風潮でしたから、死亡や解散含め、所謂「ロック伝説」は随分と残っております。






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あなただけをSomebody to Love/ジェファーソン・エアプレイン [ジェファーソンエアプレイン]





ジェファーソン・スターシップ、スターシップ、KBCバンドと変革を繰り返し、何処までがジェファーソン・エアプレインなんだか、何処からが違うのか?正直、当サイト運営者、よくわからないのですが(汗)、80年代までわりとヒット曲をだしていたので、60年代の曲で恐縮ですが、ジェファーソン・エアプレインの大ヒットナンバー!「あなただけを」(Somebody to Love)をアップしてみました。

やはりこの女性ボーカルのグレイス・スリックの美貌、ルックスというのは、ある種あのサイケデリックロック時代の象徴だったのではなかったか?と思ったりいたします。

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70年代になるとジャニス・ジョップリンの死去もあり、彼女の評価が圧倒的になり、「ロック伝説」で女性ボーカルと言えば「ジャニス」がある種のロックファンの合言葉になり今に至っておりますが、グレイス・スリックは60年代後半、サイケデリックロック、ヒッピーフラワームーブメント、カウンターカルチャーのカリスマだったわけであります(リックスの影響大!)。

まあ、そのジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックスの死というのは、ロックとドラッグで革命が起こせると思ってた、お気楽な当時の若者達にショックを与えたわけで、カルロス・サンタナはドラッグを断ち、宗教に心の救いを求めるようになったように、ジェファーソン・エアプレインのマーティ・バリンも思う所があったようで、1971年に自分で作ったバンドを脱退してしまい、インディーズレーベルをたちあげ、それなりの評価も受けるも、なんとなーく70年代になってからジェファーソン・エアプレインは影が薄くなった感は、特に日本では否めず、1973年、バンドは解散。

が、翌1974年にはグレイス・スリックのソロをプロモートするツアーで、新メンバー含め、ポール・カントナー、グレイス・スリック、ディヴィッド・フライバーグ、パパ・ジョン・クリーチ、ジョン・バーベイタのエアプレイン最終組が残りジェファーソン・スターシップが始動。

で!ジェファーソン・スターシップの1stアルバムとライブには、早くも!辞めたマーティ・バリンがゲスト参加。2ndアルバム「Red Octopus」(全米1位)からは完全にバンドに復帰しており、解散→新バンド結成というより、バンドが唯「改名」しただけという印象を、殆どの日本のロックファンはもってると思うのは、こんな経緯が原因でしょうね。情報も乏しかった時代ですから、当時、エアプレイン、スターシップの情報、そこまで詳しく日本に届いてなかったですから(届いていても、よほどのファンじゃない限り、なかなか目に耳にする事がなかった)。






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ザ・バンド ザ・ウェイト THE BAND / THE WEIGHT (1969.Woodstock Festival) [バンド]





イギリスはリバプールのザ・ビートルズが、大旋風をアメリカで巻き起こした1964年、グループ名をザ・ホークスからリヴォン&ザ・ホークスに変え、カナダとアメリカで地道にライブ活動をしていたそうで、そんな彼等をスカウトしたのが、ボブ・ディランのマネージャーのアルバート・グロスマン。

わりと有名なボブ・ディランがアコースティックギター1本から、エレキバンドをバックに従えサウンドが変革したという事で、電気楽器、エレキを嫌うコアなフォークファンからは大ブーイングをくらったという逸話のある、その当事者がこちらリヴォン&ザ・ホークス。後のザ・バンドなわけですね。

1968年、バンド名をザ・バンドとし、アルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」(Music From Big Pink)で遂にザ・バンドはレコードデビュー。1968年と言えば正に!ヒッピーフラワームーブメント、サイケの全盛時代。その時代の空気に背を向けた、本来のR&Rの元祖の志向である、ブルースやR&B、ゴスペルなどの黒人音楽と、カントリーやトラデイショナルソングなどの白人音楽とを融合させたサウンドを作り上げたザ・バンドのこのアルバムを聴き、当時カリスマ人気のあった!クリームのエリック・クラプトンが、クリームを辞めたくなった原因の1つという逸話も「伝説」として残っており、エリック・クラプトンのソロになってからの音楽趣向を鑑みると、そのきっかけは、やはりザ・バンドだったのかな?と思ったりいたしますね。

当サイト運営者が、こちらザ・ウエイト(The Weight)を初めて耳にしたのは、新宿文化で観た映画「イージーライダー」で、映画ではザ・バンドの曲が使われていたのに、少年のボクがなけなしの金を叩いて勝った(笑)「イージーライダー」のサントラ盤のザ・ウエイト(The Weight)は、スミスという人のヴァージョンが挿入されていて、まあ、契約の問題だなんだ色々あったらしいのですが、大人の世界はよーわからんと、蒼きボクは思ったものでした(笑)。





1970年になって日本でも上映された、かの!有名なウッドストックフェスティバルの映画でも、ザ・バンドの演奏シーンは、多くのミュージッシャン、グループ同様、導入されなかったので、今のようにYouTubeやレンタルDVDも世の中に存在していなかった時代!結局、動くザ・バンドを観たのは、1978年、日本でも上映された彼等の解散ライブをマーティン・スコセッシ監督が映画にした、「ラストワルツ」 (The Last Waltz) でしたね。

そう思うと、つくずく!凄い時代になったものだと、おっさんは感慨に耽りまする、、、。






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スレイド グッバイ・ジェーン SLADE - Slade - Gudbuy T'Jane - Live in TV/Disco/Germany [スレイド]





スレイドもありがちでしたが、本国とイギリスと日本ではグラムロックブームの1970年代初頭、それなりに人気の高かったバンドでしたが、R&Rリバイバルとはいえ、そもそもグラムロックブームというのがアメリカでは起きていなかったので、スレイドもアメリカ進出は失敗したグループの1つでした(されどアメリカのキッスのジーン・シモンズは、スレイドの影響を述べてるとか)。

正に!Tレックスとデビッド・ボウイによるイギリス、グラムロックブームの1972年、スレイドの全英1位アルバム、「スレイド? 」(Slayed?)収録のこちら「グッバイ・ジェーン」(Gudbuy T' Jane)は日本でも中ヒットし、こちらも日本では中ヒットだった(全英1位)翌1973年の「カムオン」(Cum On Feel The Noize)と共に、グラムロックブーム吹き荒れた当事、ちょっとした洋楽ファン、ロックファンなら好き嫌いはともかく、スレイドというバンド名、この2曲は耳にした事があると思われます。

が!1974年のグラムロックブームの終焉と共に、まあ、Tレックスやデビッド・ボウイ、スージー・クアトロほど!日本では人気のなかったスレイド。一気に人気も下降し、本国イギリスでもこの後のパンクロックムーブメントで影も薄くなったようですが、鉄の女、サッチャーの徹底した経済制裁、フォークランド紛争の勝利により、大不況の!イギリスも景気が回復し、浮かれ気分になり、パンクロックブームが下火になった1980年代、イギリスではスレイドの人気は復活したようで、1983年にクワイエット・ライオットが彼等の大ヒット曲「カムオン」(Cum on Feel the Noize)をカバーした事で、次世代の日本のロックファンにもスレイドは再認知され、1980年代のハードロック、ヘビーメタル、ジャパメタブームの頃、久々に日本でもスレイドの名前が稀に聞かれるようになった記憶が、当サイト運営者はありまする。

1991年に解散する迄、長きに渡り一度もメンバーチェンジのなかった、ロックバンドにしては珍しい!バンドであり、狂乱を「演じられる」者達は賢者であると、つくずく思う次第であります。






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アース・ウィンド&ファイアー 宇宙よりの使者(マイティマイティ)Mighty Mighty/Earth, Wind & Fire [アースウィンド&ファイヤー]





1971年のデビューアルバム後、「愛の伝道師」「地球最後の日」「ブラックロック革命→ヘッド・トゥ・ザ・スカイ」と、凄まじく仰々しい邦題がつく(笑)、まあ、ジャズファンク、クロスオーバー的なアルバムを発表していたアース・ウインド&ファイヤーなれど、商業的な大成功には至らず(特に日本では)、こちらはそんなアースがファンキー路線に方向転換した1974年の「太陽の化身」(Open Our Eyes)の自信の!A面1曲目。

後の大ヒット曲!「宇宙のファンタジー」以前から宇宙という邦題はついていた!「宇宙よりの使者」。まあ、「マイティマイティ」(Mighty Mighty)という題名で昨今のアースファンにもお馴染みの人気の高いナンバー。

まあ、その前のアルバムを「ブラックロック革命」と邦題タイトルにつけてた所が正に!時代であり、ジャズファンクでもクロスオーバーでも、ましてやフュージョンでもない「ブラックロック」、、、当時は黒人音楽が未だ一般的には今ほど認知されておらず洋楽はポップスに続いてニューロックが人気でしたから、商業的にイマイチ、パッとしなかったアースをレコード会社の営業戦略で「ブラックロック」と謳って売り込んだのでしょうが、残念ながらアースは未だ!ブレイクは出来なかったわけです。

ブレイク前のアース・ウィンド&ファイヤーは、黒人社会で人気絶頂だった!ウォーの前座をやったり、白人ロックファンやメキシコ系に人気抜群だったサンタナの前座をやったり、ディープ・パープルファンにはお馴染みの映像&音源である、カリフォルニアジャムにも参加し、認知度をあげようという企業努力があったわけで(そういう営業方針、白人マーケットを狙った音楽性を、Pファンクのジョージ・クリントンには辛辣に批判されていたとか)、こちらアルバム「太陽の化身」(Open Our Eyes)の「宇宙よりの使者」(マイティマイティ、Mighty Mighty)は、1974年のカリフォルニアジャムの時期とリンクします。

おそらく日本の踊り場でアースの楽曲が使われたのは、その「ブラックロック革命」の次のアルバムからの、こちら「宇宙よりの使者」(マイティマイティ、Mighty Mighty)が最初だと思われます。

ただ、同時期、日本の踊り場デビューを果たし、今もダンクラファンに人気の高いKC&ザ・サンシャインバンドの「ファンキーホーン」ほど支持はされず、ウォーやジェームス・ブラウン、グラハム・セントラルステイション等のように、コアなファンクファンにも支持されず、同じく新興ファンク勢力だったクール&ザ・ギャング、オハイオ・プレイヤーズ、BTエクスプレスほどアースというバンドや、楽曲「宇宙よりの使者」(マイティマイティ、Mighty Mighty)が踊り場ファンに浸透していたという記憶は、私的にはありませんね、、、。

アースの人気が先ず!踊り場で、そして日本全国で確実になるのは、もう少し時間がかかったと記憶しております。






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ToTo - Rosanna トト ロザーナ [トト]





80年代につき恐縮。TOTOが1982年に発表したアルバム「TOTO IV~聖なる剣」( TOTO IV)に収録されていた、1977年結成以来、ロックファン、ギターキッズに認知度は高かったですが、一般的な洋楽ファン、ポップスファンにもTOTOが知られ人気になったのが、こちら1983年にグラミー賞最優秀レコード賞受賞「ロザーナ」(Rosanna)。

まあ、賛否両論ありましたが、ネットもない時代、80年代初頭のロックシーンの大セールスの一翼を担ったMTVを見事に活用した、音楽共々!都会の街影で赤いきらびやかなドレスを羽織ったダンサーのロザーナ(シンシア・ローズ)と灰色の背景を対比させた映像でインパクトを与えたのが、こちらTOTOの「ロザーナ」(Rosanna)。「ベストヒットUSA」世代の方々なら、嫌ってほど!観て聴いた映像&音源と思われます。

ジャーニーやフォリナー等と共に「産業ロック」と揶揄されたTOTOですが、その対比にあったのはパンクロックだったと思われますが、当サイトでも幾度となく紹介しておりますが、大不況で失業者は若者まで溢れていたイギリスと違い、日本は高度成長から後にバブルと言われる時代にまっしぐらの浮かれ気分だったので、日本ではリアルタイム、パンクムーブメントは実際には起きておらず!、又、パンクの源流、ロンドンパンクも、鉄の女、サッチャー首相の徹底的な経済政策とフォークランド紛争の勝利により、80年代も半ばになるとイギリスも浮かれ気分になり、ニューロマンチックなるファッショナブルでポップでダンサブルな楽曲が流行りだし、完全にパンクは廃れ「産業ロック」とニューロマンチックとマイケル・ジャクソンが、時代にもてはやされていたわけであります。

まあ、そんな80年代の「ロザーナ」(Rosanna)は、ある種の幕開けを飾ったと言えなくもない楽曲でありますね。






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レッド・ツエッペリン Led Zeppelin イン・ジ・イヴニング ( In the Evening ) [レッドツエッペリン]





アメリカ、日本では空前のディスコブーム、イギリスではパンクムーブメントからニューウエイヴと時代は急激に変わっていた1979年発表のレッド・ツエッペリンのアルバム、「イン・スルー・ジ・アウト・ドア 」(In Through the Out Door)のA面1曲目を飾った「イン・ジ・イヴニング」 ( In the Evening )。

時代の急激な変化とパンク勢に攻撃の的になっていたので、スタジオ録音は1976年の「プレゼンス」
(Presence)以来3年ぶりになったこちらのアルバムは、レッド・ツエッペリン自身も今迄のような成功は得られないだろうと思っていたそうですが、予想に反し見事に!アルバムは再びビルボード1位を獲得!7週その座を守り、相乗効果で過去のアルバムも再び全部売れだし、レッド・ツエッペリン健在ぶりを示したわけですが、ファンの間ではこのアルバム、賛否両論あり(ジョン・ポール・ジョーンズのキーボードサウンドに対して等)、レッド・ツエッペリン完全復活の真価は次のアルバムにかかってるような空気もなきもしもあらずでしたが、残念ながら1980年9月25日、ジョン・ボーナムの急逝によって、バンドは終焉を迎えてしまったわけであります。

1982年、未発表曲を集めた「最終楽章(コーダ)」(Coda)を発表しておりますが、実質的な最後のスタジオ録音アルバムは、こちら「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」(In Through the Out Door)なわけで、後世のロックファンに70年代はレッド・ツエッペリンとディープ・パープルの時代と伝説で語られますが、実際はレッドツエッペリンは76~79年は、「プレゼンス」(Presence)と、こちら「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」(In Through the Out Door)の2枚しかスタジオ録音アルバムは発表しておりませんし、ディープ・パープルは1975年の「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste The Band) 後、解散してしまい(再結成しますが)、1970年代後半は存在すらしていなかったわけです。



それでも!レッド・ツエッペリンが70年代後半、人気を維持できたのは、やはり1973年のライブを中心に制作発表した1976年の映画&サントラが「永遠の詩 (狂熱のライヴ)」(The Song Remains the Same)の大成功にあり、DVD以前にレンタルビデオショップもない時代、この映画は「ウッドストック」等との抱き合わせで、名画座のドル箱になっており、日本中の名画座で繰り返し上映されたのが、70年代後半は来日もしてないレッド・ツエッペリンの、最高の!プロモーションに映画がなってたと言えるわけであります。

一方、70年代後半は解散して存在もしてなかったディープ・パープルは、日本では解散後も根強い人気を誇っており、リッチー・ブラックモア脱退が響き(パープルファン=リッチーファンが多かったから)「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste The Band) は不発に終わり、商業的にも失敗したわりに(それが解散の原因にもなってます)、例のライブインジャパンのアンコール曲「ブラック・ナイト」のライブ音源含む編集アルバム「ブラック・ナイト= 24カラット 」(24 Carat Purple)が同年75年に発売され、これが ニューアルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste The Band) よりも好セールスを記録。

更には翌1976年にはリッチー在籍時のライブアルバム、「メイド・イン・ヨーロッパ -」(Made in Europe )が発売され、これも好セールスを記録!。更に更に!その翌年1977年にはトミー・ボーリン在籍時のライブ盤「ラスト・コンサート・イン・ジャパン」 ( Last Concert in Japan ) が発表され、お馴染み!リッチー在籍時の名曲をトミー・ボーリンが奏でている事もある、これもリッチーのいないパープルなのに!パープルファンはリッチーヴァージョンとトミー・ボーリンバージョンの「紫の炎 」( Burn)や「スモーク・オン・ザ・ウォーター」( Smoke on the Water)等を聴き比べる楽しさもあり、好セールスを記録。

一方、リッチー・ブラックモアの新バンド「レインボウ」も当初は不評でしたが、コージー・パウエルを入れ、メンバーを一新してからの2作目からはハードロックフリーク注目の的になっており、1976年には第二期のシンガー、イアン・ギランが自身のバンドを結成。1978年には第三期のシンガー、デイヴィッド・カヴァデールもホワイトスネイクでアルバム発表、注目を得、更に決定的だったのが、第二期、第三期の名曲を集めたベストアルバム「ディーペスト・パープル 、Deepest Purple」(The Very Best of Deep Purple) が1980年に発表。これも好セールになり、まるでディープ・パープルは解散してないかのごとく、遠い極東の島国日本では、ディープ・パープル、レインボウのレコードは売れまくっており、イアン・ギラン、デイヴィッド・カヴァデールもホワイトスネイクも注目を集めていたわけであります。

でも!現実にはディープ・パープルは1970年代後半は解散。存在しておらず、レッド・ツエッペリンも1976~80年迄の間、スタジオ録音アルバムは2枚しか発表していなかったわけです。




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グランド・ファンク・レイルロード パラノイド(Paranoid) [グランドファンクレイルロード]





1969年12月に発表された、1970年、日本でも大ヒットした!グランド・ファンク・レイルロードのセカンドアルバム「 グランド・ファンク 」(Grand Funk)のB面ラスト、当事のギターキッズの必修科目でもあった(笑)アニマルズのカヴァーなれど、アレンジの強力な「孤独の叫び」(Inside Looking Out )に流れる前の!こちらも名曲「パラノイド」(Paranoid)。

グランドファンクというと、全米チャートをかけあがった「アメリカン・バンド」「ロコモーション」の大ヒットのせいでしょうか?ノー天気で楽しくマッチョなアメリカンバンドイメージが強いですが、それ以前、特にこちらのアルバム、けっこう重々しくて、B面の「パラノイド」(Paranoid)は冒頭の効果音とラストの赤ん坊の鳴き声の効果音は、けっこう不気味で、そして次のドラムから厳かにはじまる「孤独の叫び」(Inside Looking Out )の流れは、続けて聴いてると妙〜に!おもーい気分になったものでした(2曲とも長いですし)。

初期の日本でのグランドファンクの代名詞、「ハートブレイカー」(Heartbreaker)もマイナーキーで、けっこう重々しい曲だったので、「アメリカンバンド」以前のグランド・ファンク・レイルロードに、あまりノー天気で楽しいアメリカンバンドって印象は、当サイト運営者は持っていなかったですね。

キーボードが加入する以前の、この当事のグランドファンクは、バンド編成が同じドラム、ベース、ギターのスリーピースだった、それ以前のクリームやジミ・ヘンドリックス&エクスペリアンスと比較される所がありましたので、当事カリスマギタリストであったクリームのエリック・クラプトンや、天才ジミ・ヘンドリックスとマーク・ファーナーは比較されるのは、ちと可哀想だったなという感じでしょうか。

マーク・ファーナーはマーク・ファーナーで、非常にシンプルでワイルドな、リズムギターやリードギターを得意としていた、ロックスピリッツ論で言えば!とても良いギタリストだと思いますし、当事フリーのポール・ロジャース、フェイセズのロッド・スチュワート、レッド・ツエッペリンのロバート・プラントが圧倒的に!ロックファンにシンガーとして支持されており、また、それを好きだ1番だと言わないと、「イモ」「わかってない奴」とレッテルを貼られる危険のある同調圧力も蔓延しており(笑)、マーク・ファーナーのボーカルは過小評価されておりました、いや!評価の土俵にのる事も殆どありませんでしたが、マーク・ファーナーは相当!歌がお上手。

まあ、昨今の若い音楽ファン事情は当サイト運営者はわかりませんが、70年代当事は「誰々より誰々の方が上。凄い」、イコール(だからそんなの好きな、おまえよりオレの方が上、凄いんだぞ〜)に会話の落とし所を必ず!もってきたがる、卑屈で傲慢な『嫌〜な奴』のロックファンは吹きだまりでしたので(爆)、グランドファンクは日本でも抜群の人気者ゆえ、『嫌〜な奴』の悪趣味のその比較対称、優劣の劣側に利用され易いバンド、シンガー、ミュージッシャンだったわけであります。






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エアロスミス ドリーム・オン(Dream On) [エアロスミス]





1973年のエアロスミスのデビューアルバム「野獣生誕」(Aerosmith)収録の「ドリーム・オン」(Dream On)。

今でこそロックレジェンド、老舗ロックバンドのエアロスミスですが、デビュー当事はアメリカ、イギリスで酷評、嘲笑され(ザ・ローリング・ストーンズ、ヤードバーズの物まね扱い)、日本では「野獣生誕」(Aerosmith)は発売もされていなかったわけで、日本でのエアロスミスのデビューアルバムは翌1974年のセカンドアルバム「飛べ!エアロスミス」(Get Your Wings)であり、まあ、このへんはその10年前のザ・ビートルズも似たようなもので、日本でのザ・ビートルズのデビューアルバムは、アメリカキャピタルレコードの編集アルバム「ミート・ザ・ビートルズ」であり、公式デビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」「ウィズ・ザ・ビートルズ」はリアルタイム、日本では発売されてなかったわけで(後に発売されますが)、よくある話し。

それでも日本でのデビューアルバム、エアロスミスにとってのセカンドアルバムの「飛べ!エアロスミス」(Get Your Wings)も全く売れず、相変わらず音楽評論は酷評、嘲笑の雨あられだったわけで、日本でエアロスミスがそれなりに少しは評価されるようになるのは、かの!有名な、音楽、ロックに興味のない方でもTV「踊るさんま御殿」で使用されてるので聴き覚えがある、「お説教」(Walk This Way 、ウォーク・ディス・ウェイ)収録の、1975年のサードアルバム「闇夜のヘヴィ・ロック」(Toys In The Attic)から。

「お説教」(Walk This Way 、ウォーク・ディス・ウェイ)はエアロ・スミス初の!全米トップ20入りするヒットになり、そして再シングル発売されたこちら「ドリーム・オン」(Dream On)が相乗効果で
翌1976年、何と!全米6位までかけあがる大ヒットになり(デビュー当事は全く売れてません)、日本は当事未だ歌謡史的に残る空前の和製ふぉーくブームを引きずっていた時期だった事もあり、ファンクロックの「お説教」(Walk This Way 、ウォーク・ディス・ウェイ)より、情緒的な!「ドリーム・オン」(Dream On)が好まれ、この曲から!日本ではエアロスミスが人気者になったと、言っても良いと思われます。時は1976年。



で!若い人には皆「爺婆」「おっさん、おばちゃん」に見えるであろう層でも、1970年前後のニューロックファンと、1976年以降のロックファンでは、1時代異なるほどの隔たりがあるので、70年代を代表する老舗バンドとエアロスミスが言われても、1970年前後のニューロックファン層には案外、エロロスミスに思い入れのある人は少なく、1976年頃から音楽雑誌「ミュージックライフ」が、大人気だったベイシティ・ローラーズを中心に、エアロスミス、キッス、クィーンを強烈にプッシュしだし、新ロック御三家的に扱いだしてから、洋楽、ロックが思春期ど真ん中だった、初体験だった層とは(元はベイシティ・ローラーズのグラビア、記事目当てだった女のコ達含め)、僅か数才の違いでも、洋楽、ロックに対するソレは相当!異なる、大きなジェネレーションギャップがあるわけであります。

が、1980年代に商業的に最も!ロックが売れた時代、1980年代後半のバンドブームの主役だったのは、ニューロックファン層ではなく、この1976年あたりが中高生時代だった次世代のロックファンでしたから、そのとっかかりになったエアロスミス、キッス、クィーンの思い入れ、或いは主に女性ですがベイシティ・ローラーズへの思い入れというのは、かなり強いと思われます。

ちなみに、このデビューアルバムのB面ラストには、ザ・ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズがカヴァーし歌っていた、ルーファス・トーマスの「ウォーキン・ザ・ドッグ」( Walkin' The Dog)をエアロスミスも演奏、収録されてます。




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ダイスをころがせ Rolling Stones - Tumbling Dice (From "Ladies & Gentlemen" DVD & Blu-Ray [ローリングストーンズ]





ザ・ビートルズファンたるものストーンズごとき好きになってはいけない。ストーンズファンたるものビートルズごとき好きになってはいけない。ザ・モンキーズは論外。

わりと1970年前後は、昨今(2013年)の20代〜40代の人達にはわからない、こういう不文律、決まり、ファンの掟があって(笑)、「たかが音楽」「たかがバンド」を聴く好むだけでも、とても不自由だったわけで(爆)、こちら1972年の「メインストリートのならず者」(Exile on Main St.)からのシングルカット、「ダイスをころがせ 」( Tumbling Dice)が、アメリカのみならず日本でもヒットチャートを駆け上がった時は、ザ・ビートルズファン一派だった蒼き当サイト運営者は困ったものでした(笑)。ケチつけなくちゃいけないし、個人的には(好いんじゃない?ビートルズは解散しちゃったけど、ストーンズよく頑張ってんじゃん)という思いがあったからですね。

翌1973年も、アルバム「山羊の頭のスープ」 (Goats Head Soup)からの、如何にも!当事の和製ふぉーくブーム吹き荒れる日本の、日本人の好みの「悲しみのアンジー」(Angie)が更なる大ヒットをし、同年、例の!ザ・ローリング・ストーンズ初来日公演中止とはいえ、レコード会社は来日記念盤として、A面B面、ヒットナンバーの「スペシャルカップリング」シングルを発売。

これにて当サイト運営者はザ・ビートルズファン一派の掟を破り、「オレはビートルズも好きだけど、ストーンズも好きだ」宣言をし、裏切り者の烙印を押されるわけで(笑)、まあ、ブルースやR&B、ニューソウル、ニューファンク、黒人音楽もロックと共に好んでいたので(その元もザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ。そしてエリック・クラプトンのイギリス白人の影響ですが)、白人ハードロック&プログレ至上主義者というのも当事は多かったので、ここでもリードギタリストのミック・テイラーは別にして、ストーンズの演奏力は彼等に評価されていなかったので(チャーリーやビルに限らずキースもしかり)、ストーンズを好きだというだけで、けっこうな軋轢(ある種の嘲笑、蔑み)がそこら中であり、音楽、ロックに対するディベートは、あの頃、好むと好まざると、当サイト運営者は身につけてしまいました(爆)。

更には1972~75年頃の若者達の絶対的!多数だったのは、和製ふぉーく信者達でしたので、「ふぉーくのコ」とロックや黒人音楽の話しをしても全く通じず、実際、後世で伝わる「70年代ロック伝説」の中には、リアルタイム経験者としては(ほんと〜?違うんじゃな〜い?)と思う事が多いわけであります。

まあ、そんな事、70年代のストーンズの曲、特にこちら「ダイスをころがせ」( Tumbling Dice)を聴くと思い出しますね。






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