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ビリー・コブハム トミー・ボーリン Billy Cobham, Tommy Bolin & Jan Hammer - Stratus - Spectrum.wmv [ディープパープル レインボウ]





何故?ディープ・パープルは看板ギタリスト!リッチー・ブラックモア脱退後、ディープ・パープルとは畑違いと思えるトミー・ボーリンをギタリストに迎えたのか?。

まあ、ハードロック!ディープ・パープル命ファン、リッチーフリークには評判の悪い、ディープ・パープルの1975年発表のラストアルバム(再結成前の)、「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste the Band)がわりと好きな方、評価してる方はトミー・ボーリンのそれ以前の活動をよく知ってると思います。

所謂、第三期ディープ・パープルから加入したデイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズが、ファンク、ソウル、クロスオーバー好きで、そのへんをリッチー・ブラックモアは受け入れられずに脱退したのは有名ですが、以前からのメンバー、イアン・ペイスとジョン・ロードがビリー・コブハムの、こちら「Stratus」収録のアルバム、1973年発表の「スペクトラム」(Spectrum)を聴き、トミー・ボーリンに打診したという説、デイヴィッド・カヴァデール発案説がありますが、ジョン・マクラフリンのマハヴィシュヌ・オーケストラのメンバーとして活動していたビリー・コブハムの、もろ!クロスオーバーアルバムのこちら「スペクトラム」(Spectrum)を聴いて、畑違いのトミー・ボーリンを何故?リッチーの後釜に起用しようとしたのか?、、、。

1975年という時代背景と、当事の時代の空気を考えないとわからないでしょうね。

「スペクトラム」(Spectrum)にも参加してるヤン・ハマーも参加していた、ジェフ・ベックのインストアルバムがインストアルバムにしては異例の!商業的成功を得、高く評価され、マイルス・デイビスとその一派の活動で、ジャズシーンでも注目されていたクロスオーバーというジャンルの音楽が、世の中で脚光を浴びていた。この数年後、空前のディスコブームに世界は突入する、その前兆であったR&B、ニューソウル、ニューファンクからの流れで、その手の音楽がじわじわ大衆に浸透してきた。

ディープ・パープルのメンバーやジェフ・ベック同様、同じイギリス人の元クリームのあの!カリスマギタリストだったエリック・クラプトンまで、何やらジャマイカのレゲエなんぞやりだして、しかもバカ売れした。70年前後のニューロックファンに好まれていた、ハードロック、ブルースロックが、そろそろ飽きられてきていた。

1975年というのは、こんな時代背景だったので、ファンク、ソウル好きだったデイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズに限らず、リッチーを抜かした全メンバーが、第二期、第三期ディープ・パープルのハードロック路線とは、決別しようと思っていたのではないか?と想像できます。

一説ではジェフ・ベックもリッチーの後釜として、候補に名前があがっていたそうですから、「スペクトラム」(Spectrum)のトミー・ボーリンとジェフ・ベックなら、なんとなく共通点も見いだせますし。



まあ、それでもディープ・パープルはディープ・パープルですから、トミー・ボーリンを迎えた唯一のアルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste the Band)も、サウンドの変革は誰もが感じますが、基本はハードロックであり、トミー・ボーリンもリッチーの物まねではない存在感を示してると思いますが、ディープ・パープルファンは=リッチー信者が圧倒的に多かったので、新生ディープ・パープルの挑戦は評価はぼろぼろ、商業的にも失敗に終わり、トミー・ボーリンのヘロイン中毒もあり、結局、ディープ・パープルは解散(再結成しますが)。

トミー・ボーリンも死亡してしまい、ファンはリッチーの新バンド、レインボウに流れ、又、次世代の若者達もリッチーのレインボウ、キッス、クィーン、エアロスミス、そしてヴァン・ヘイレンやマイケル・シェンカー等の新しいロックの趨勢に感化。来るべき80年代のヘビメタムーブメントの「需要」を担うようになったと。ハードロックは終っていなかった。世代交代しただけだったと(リッチー以外)。

まあ、そんな時代背景だったと、当サイト運営者、記憶しております。




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サンタナ ブラック・マジック・ウーマン/ジプシー・クイーン  Black Magic Woman/Gypsy Queen [サンタナ]



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1969年のウッドストックフェスティバルの記録映画が、デビュー直後のサンタナにとって最高の!PVになったわけで、こちらセカンドアルバム「天の守護神」(Abraxas)とサードアルバム「サンタナIII)(Santana)は、見事に全米アルバムチャート1位を獲得。

その「天の守護神」(Abraxas)のA面2曲目に収録された、イギリスのブルースマン、ピーター・グリーン時代のフリード・ウッドマックのマイナーブルース「ブラック・マジック・ウーマン」(Black Magic Woman)と、ハンガリー出身のジャズギタリスト、ガボール・ザボの「ジプシー・クィーン」(Gypsy Queen)を、メキシコ出身のカルロス・サンタナ率いるサンタナがラテンビートにのせロック的に演奏しメドレーで繋げたこちら、シングルカットもされ、アルバム同様、世界中で大ヒット。サンタナの代名詞にもなっている名曲ですね。

で、この2曲、別の日に録音してるそうで、その2曲を編集してメドレーで繋げ1曲にしてるのですから、デジタル時代の今、比較的それが簡単に出来るようになったのとわけが違い、当事はアナログのテープ時代。聴いていて何の違和感もなく、まるで1曲を通して演奏していたであろうと想像させる、当事のエンジニアのアナログテープ編集のプロの技、技巧というのは、誠に凄まじい職人技だったなと感心してしまいまする。

また、時代的に複数の曲をメドレーで繋げる編集方法は、ザ・ビートルズの「アビーロード」のB面の影響を受けたのかな?と思ったりいたします(逆にアイ・ウォント・ユーのベースラインは、とてもブラック・マジック・ウーマンに似てます。ポールが参考にしたとすれば、フリード・ウッドマックヴァージョンでしょうが)。

まあ、イギリスのフリードウッドマックのマイナーブルースと、ハンガリー出身のジャズギタリストのナンバー2曲を、メキシコ出身のカルロス・サンタナ率いるサンタナが、ラテンリズムを導入、ロック的に演奏したアイデアは、当事のアコースティック・ジャズをやめ、エレクトリックマイルスに変貌した、ロック、ファンク、ラテン、ブラジル等の音楽を融合しだしたマイルス・デイビス等と同じ、正に!クロスオーバー(後のフュージョン)の幕開けの1曲だったなと、今更ながら感心する初期サンタナの名演奏。名曲でございます。

こちらの映像&音源は1971年の、後にジャーニーを結成する若きニール・ショーンが参加してからのソレですが、カルロス・サンタナは人格者、宗教家の印象がある時期からとても強くなりましたが、デビュー当事の「サンタナ」というバンドは、そのサウンドは勿論、非常に!メンバーの風貌、バンドイメージ、それまでのロックバンドとは全く!異なる、怪しい雰囲気をもっておりました。







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ピンク・フロイド マネー Money - Pink Floyd HD (Studio Version) [ピンクフロイド]





1970年代後半のイギリス、パンクムーブメントではボロカスに攻撃の対称になっていたバンドの1つ、ピンク・フロイドですが、デビュー時から人気の高かったイギリスと日本と違い、アメリカで高く評価されるようになるのは、こちらシングルカットされた「マネー」(Money)収録の1973年のアルバム「狂気」(The Dark Side of the Moon)が全米ビルボードチャート1位を記録してから。

特にイギリス系ヘビー・メタルファンなら痛感する所あると思いますが、必ずしも!同じロックファンでも、イギリス人と日本人とアメリカ人は音楽の「好み」は一致してない。かなり異なっていたわけで、例えば、当サイトでも紹介しております、日本とイギリスでは大人気だったイギリスのグラムロックの立役者!T・レックスは、アメリカでは「ゲット・イット・オン」以外、それほどヒットしておりませんでしたし、逆にアメリカのスージー・クアトロは本国ではそれほどブレイクしなかったわりに、日本とイギリスでは大人気だったなど、アメリカで売れたから必ずしも偉いという事もなかったように感じますね(勿論!商業的にはアメリカは巨大マーケット!アメリカで売れた事が富の象徴になるわけですが)。

まあ、本国イギリスでの人気は当然としても、日本でのピンク・フロイドの人気というのは、かなり異常であり(笑)、「原子心母」「ピンク・フロイドの道」は並みいる!歌謡芸能の世界の巨匠達の中で、オリコンチャートトップ20に食い込み、「おせっかい」はトップ10に遂に!突入。「雲の影」もトップ20入り、そして!こちら「狂気」(The Dark Side of the Moon)は、当事!国民的アイドルだった天地真理さんに次いで、オリコン2位を獲得してるわけで、この後の1975年の「炎~あなたがここにいてほしい」はオリコン4位(英米共に1位)、1977年の「アニマルズ」もオリコン3位。1970年代中期のピンク・フロイドは日本でもバカ売れしてたわけでございます。

何故?難解と言われるプログレのピンク・フロイドが、これほど当事、日本で売れたのか?当サイト運営者は今も謎で(笑)、きっと何か?日本人の琴線に触れるソレがあったのでしょうね。

まあ、日本に限らずこのアルバムが大ヒットしたアメリカでも、ビルボード・チャートの200位以内に15年間(741週)に渡ってランクインし続けるという記録を打ち立てており、効果音を巧みにつかい1枚のトータルアルバムに仕上げた(デジタル時代の前の、アナログテープ作業なのが凄い!)プロデュースのアラン・パーソンズと共に、名を連ねているクリス・トーマスは、この翌年、日本のサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」を手がけているのも、日本人には興味深い所だと思われます。






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CCR トラベリン・バンド Creedence Clearwater Revival - Travelin Band [CCR]





クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(以下CCR)は、1968~1972年と思えば随分、短い活動期間だったわりに、70年前後に思春期を過ごした洋楽ファン、ロックファンには印象の強いバンドであり、これは日本に限らず映画でCCRの曲はよく使われているのを見ると、アメリカでもそうだったようですね。

CCR、人気絶頂期の1970年発表されたアルバム「コスモズ・ファクトリー」(Cosmo's Factory)からのシングルカットされた、わりとシンプルなれど豪快なR&Rナンバー「トラベリン・バンド」(Travelin Band)が全米2位を記録したのは、けっこう事件であり、何が事件かというと、まあ、R&Rリバイバル。CCRも出演してる前年のウッドストックフェスティバルで、1967年頃から続いたアメリカのヒッピー、フラワームーブメントは良く言えば頂点、悪く言えば終焉を迎えたわけで、イギリスのレッド・ツエッペリンやキングクリムゾンの登場により、ハードロック、プログレ、日本では当事、アートロックとか言われておりましたが(一般的にはニューロック)、そんな潮流がロックシーンにあった反面、イギリスでもアメリカでもR&Rリバイバルが起きてます。

当事、R&Rは完全に古くさい音楽扱いだった世界の空気を、1969年の「ウッドストックフェスティバル」のシャナナが払拭したと当サイト運営者は思っておりますが、ジョン・レノンのプラスチック・オノ・バンドもR&Rリバイバルの傾向にあり、結局、そんな空気の1970年、豪快なR&RナンバーのこちらCCRの「トラベリン・バンド」(Travelin Band)が全米2位を記録したのは、やはり事件だったと思わずにいられないわけであります。

この後のイギリスのグラムロックや、エルトン・ジョンの「クロコダイルロック」「土曜の夜は僕の生き甲斐」等、正に!R&Rリバイバルなわけで、この潮流が1972年のカーペンターズのアルバム「ナウアンドゼン」のB面の例のオールディーズを散りばめたアイデアが、バカ受けした時代の空気、1973年、無名のジョージ・ルーカスが1961年のアメリカの一都市の一日を、当事のR&R、オールディーズナンバーを散りばめ発表した「アメリカン・グラフィティ」の大ヒットした時代の空気。

まあ、この世界の潮流、空気なくして、かの!矢沢永吉氏が在籍していた、ジョニー大倉氏のアイデア、デビュー前の革ジャン&リーゼントスタイルのザ・ビートルズスタイルに、オリジナル含むR&Rを奏でるバンド、キャロル登場もなかったわけであります(キャロル、デビューは1972年)。

というわけで、シンプルで豪快なR&Rナンバー!、こちらCCRの「トラベリン・バンド」(Travelin Band)が全米2位を1970年に記録したというのは、事件なのであります(笑)。






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言いだせなくて イーグルス Eagles - I Can't Tell You Why [w/ lyrics] [イーグルス]





イーグルスも内紛の多いバンドで、再結成後も有名でありますが(汗)、1976年末発表されたアルバム「ホテル・カリフォルニア」は日本でも大ヒットし、全世界で1200万枚近い売り上げを記録するビッグヒットになったわけですが、日本でもその髪型と雰囲気が当事、雑誌「ポパイ」発のサーファーブームの最中、「サーファーっぽかった」し、日本人好みのフェイスをしていたので人気の高かった、ベーシスト&ボーカルのランディ・マイズナーが「ホテル・カリフォルニア」のアルバム、シングル絶好調の最中!グループを脱退する事件が1977年には起き、ファンは唖然呆然としたものでした。

で、後任にティモシー・B・シュミットが入り、リアルタイム、イーグルスが放った最後のスタジオ録音アルバム(再結成後してますが)、1979年の「ロング・ラン」(The Long Run)の、タイトル曲に続くA面2曲目の「言いだせなくて」(I Can't Tell You Why)は、そのティモシー・B・シュミットがメインボーカルをとった、自身のオリジナルの美しいバラードの名曲。

「言いだせなくて」(I Can't Tell You Why)でも、とても印象深いギターソロを演奏してる、「ホテル・カリフォルニア」の12弦ギターによる例の!イントロと、後半のジョー・ウォルシュとのツインギターを弾いていたドン・フェルダーも、再結成後にドン・ヘンリー、グレン・フライとの不仲で脱退しているように(ランディ・マイズナー脱退も同じ理由)、既に「ロング・ラン」(The Long Run)レコーディング前、最中からバンドは亀裂が生じてたわけであります。

イーグルスは1971年にレコードデビューしておりましたが、ドン・フェルダーは1975年の「呪われた夜」から、ジョー・ウォルシュは76年の「ホテル・カリフォルニア」から、ティモシー・B・シュミットは「ロングラン」からの皆「新入り」で、オリジナルメンバーのドン・ヘイリー、グレン・フライと溝があったようで、まあ、カントリーロックっぽかった結成時の爽快なアメリカンバンドイメージは、アルバム「ロング・ラン」では感じられず、初期のサウンドとはまるで違うバンドにイーグルスはなっておりましたね。

唯、皮肉な事にイーグルスらしくないアルバム「ロングラン」は、「ホテル・カリフォルニア」と「グレイテストヒッツ」のロングセラーと、雑誌「ポパイ」発のLAブームにのって人気絶頂だったイーグルスの唯一!のオリコン1位を記録しており、「ホテル・カリフォルニア」ですら!オリコン最高位2位でしたから、如何に!イーグルスというグループが、日本では「ホテル・カリフォルニア」「グレイテストヒッツ」以降、その人気が大爆発したのか?そして「ロングランが待ちに待たれたアルバムだったか?、リアルタイムを知らない方でもわかると思います。








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レオン・ラッセル マスカレード THIS MASQUERADE / LEON RUSSELL [レオンラッセル]



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カーペンターズ、ジョージ・ベンソンのカヴァーで有名な「マスカレード」(This Masquerade)は、1972年にレオン・ラッセルが発表したアルバム「Carney」に収録されていた、レオン・ラッセルのオリジナル曲でありました。

ザ・ビートルズ解散の激震もさめやらぬ1971年、ジョージ・ハリスン主催のバングラデッシュ難民救済コンサートの記録映画「バングラデッシュのコンサート」は、レオン・ラッセルの名を(顔も)日本でも一躍!有名にした映像&音源だったわけで(特にザ・ビートルズフリークに)、又、カーペンターズで大ヒットした「スーパースター」の作者として、そしてこの後、暫くの間、カーペンターズは日本でも大人気であり、「シング 」「ジャンバラヤ」「イエスタデイ・ワンス・モア」とシングルカットされ大ヒットしたアルバム 、アルバムB面にはオールディーズのカヴァーを集め、日本のこの後のオールディーズブームのきっかけの1つでもあった「ナウ・アンド・ゼン」(Now & Then)の、A面2曲目に、こちら「マスカレード」が(This Masquerade)収録されていたり、レオン・ラッセルは当事、日本の洋楽ファン、ロックファンの間で、とてもホットな存在でありました。

勿論、レオン・ラッセルはそれ以前から、スタジオ・ミュージッシャンとして多くのレコーディングに参加していた、その世界では有名なミュージッシャン、プレイヤーズプレイヤーだったわけですが、レオン・ラッセル他、所謂スワンプ・ロックを有名にしたのは、当事、当代随一の!人気グループだった、ザ・ビートルズのジョージ・ハリスンが、ザ・ビートルズ解散直前から後の彼等への接近と、こちらも当事、カリスマギタリストとして人気抜群だったエリック・クラプトンがクリーム、ブラインド・フェイス解散後、彼等に急接近した事で、音楽雑誌はじめマスメディアがジョージとエリックの動向をとりあげた事で、日本でもスワンプ・ロックが一躍有名になったと記憶しております。






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ザ・ポリス キャント・スタンド・ルージング・ユー The Police - Can't Stand Losing You [ポリス]





1979年に発表されたアルバム、「白いレガッタ」(Reggatta de Blanc)と収録曲「孤独のメッセージ 」(Message in a Bottle)が日本でも売れ、大ブレイクしたザ・ポリスの1978年のデビューアルバム、「アウトランドス・ダムール(Outlandos d'Amour)収録の、こちらは「キャント・スタンド・ルージング・ユー」(Can't Stand Losing You)。

当サイトで幾度か触れておりますが、1977年のクリス・トーマス(ザ・ビートルズ、ロキシー・ミュージック、サディスティック・ミカ・バンド等)プロデュースによる、セックス・ピストルズのアルバム「勝手にしやがれ!!」(Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols)もバンドも、リアルタイム大人気だった母国イギリスと違い、アメリカと日本では、レコード会社、音楽評論家の強烈なプッシュがありましたが、必ずしもブレイクせず、日本でパンクブームというのは実際は起きていなかったわけです。

良くも悪くも当時の日本の音楽ファンは、70年代初頭のニューロックファンも、この当時のクロスオーバー(後のフュージョン)、ハードロックからヘビーメタルに流れる層は皆「テクニック好き」であり、グラム・ロックの雄!T・レックスが商業的大成功&大人気から一転、日本でのライブ公演の演奏が「下手だった」と烙印を押された途端、日本で人気が急降下したほど、案外、日本の音楽ファン、ロックファンというのは手厳しく(又、その悪評が流れ、それに同調しないとイモ、わかってない奴と言われバカにされる村八分圧力、恐怖もあった)、セックス・ピストルズ、パンクは当初、そういうレッテルを簡単に!音楽ファン、ロックファンに貼られたのが、ブレイクしなかった原因だと記憶しておりますが、その風評、空気をこちらのザ・ポリスがを変えたと、当サイト運営者は確信しております。

勿論、ザ・ポリスをパンクと呼ぶ方は今やいないと思われますが、デビュー当事はその風貌、バンド編成、又、日本のレコード会社の売り出し方、音楽評論家のプッシュも「時代の」パンクの一派のソレであり、されどザ・ポリスはお三方ともテクニシャンであり(所謂テクニックみせびらかせ、弾きまくり聴かせまくりのソレではないですが)、全てのアルバム、楽曲に言える事ですが、デビューアルバムにしてこちら「キャント・スタンド・ルージング・ユー」(Can't Stand Losing You)も、独特のドラム&ベースのリズム、リズムギターの刻みは斬新で、更にハーモニーの上手さは一聴して誰でも感じると思われますし、又、楽曲の起承転結、静と動の起伏も秀逸で、トリオでこれは凄いなと、テクニック好きのロックファン、音楽ファンにも高く評価されたわけで、楽曲の秀逸さとこの評価がザ・ポリスの商業的成功に繋がり、パンクと呼ばれなくなる所謂ニューウエイヴと言われるようになる1980年前後から80年代にかけ、後世の新しいロックキッズ、ギターキッズ等に、70年代のパンクムーブメントが見直され(そのグルーヴ、ビート感、バンドのイメージ)、再評価されるわけであります。






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レッド・ツエッペリン ブラック・ドック Led Zeppelin - Black Dog (Live Video) [レッドツエッペリン]





今、現在(2013年)50代後半から40代後半ぐらいの元ギターキッズが、必ず!フルコピ、完コピは別にしてコピーした、しようと試みた1曲であろう、レッド・ツエッペリンの「ブラックドック」(Black Dog)。

やっぱり、1976年上映の「永遠の詩」 (狂熱のライヴ)(The Song Remains the Same)の映画ヴァージョンより↑、1971年、最も!レッド・ツエッペリンのアルバムで売れた(当時)全米売上:2,320万枚を記録したスタジオ録音「レッド・ツェッペリン IV」(Led Zeppelin IV)ヴァージョンの方が良いかな?(笑)↓、、、



レッド・ツェッペリン IV」(Led Zeppelin IV)のA面1曲目の、こちら「ブラック・ドック」(Black Dog)に、脳天くい打ち、パイルドライバーくらったような衝撃を受けた、 今、現在(2013年)50代後半から40代後半ぐらいの元ギターキッズ、多いのではないか?と思われます。で、続くA面2曲目の「ロックン・ロール 」(Rock and Roll)に続く、この並び!レコードが擦り切れるほど聴いた、コピーした元ギターキッズ多いのではないでしょうか?(A面4曲目の「天国への階段」は勿論の事)。

レッド・ツエッペリンもザ・ビートルズ同様、年齢と共に、聴く度に新たな発見、衝撃がある不思議なバンドであり、どの楽曲もしかりですが、ドラマーのボンゾ、ジョン・ボーナムのドラミングはやはり凄いな〜と痛感する次第。

基本的に当サイト運営者、ありがちな「ジミー・ペイジ下手説」には反旗を翻す側で(笑)、職人!ベーシストのジョンジー、ジョン・ポール・ジョーンズは勿論の事、はやりレッド・ツエッペリンは、渋谷陽一氏曰く!あの時あのメンバーでなければなし得なかったグルーヴ、ロックバンドのマジック、化学反応が確かにあると、思わずにはいらない、こちら「ブラック・ドック」( Black Dog)も、そんな一曲だと、幾つになっても!痛感させられます。

ジミー・ペイジのギターリフをコピーしたから良いというものではロックバンドはなく、あの時あの4人でなければなし得なかった、不思議なレッド・ツエッペリン独特の!タイム感、リズム感=グルーヴが、このバンドほど感じるグループは、そうそういないのではないか?と思わずにいられない、正に!レッド・ツエッペリングルーヴ!これこそワンアンドオンリーのグルーヴではないか?と、感じさせられまする。






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リキの電話番号 スティーリー・ダン RIKKI DON'T LOSE THAT NUMBER (1974) by Steely Dan [スティーリーダン]





1974年、スティーリー・ダンが発表したアルバム「プリッツェル・ロジック~さわやか革命~」(Pretzel Logic,)A面1曲目、シングルカットされ大ヒットしたナンバー。

スティーリー・ダンは、ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの二人だけになり、後は有名スタジオミュージッシャンを起用した1977年の 「彩(エイジャ)」、1980年 の「ガウチョ」の2枚のアルバムが、折からの当時はスタジオミュージッシャンブームもあり(それがクロスオーバー、フュージョンブームに繋がります)とても有名でしたが、ギターのジェフ・バクスター(この後、ドゥービー・ブラザーズ加入)、デニー・ダイアス、ドラムにジム・ホッダー がいた、未だバンド形式だったこの頃のアルバム、楽曲も、なかなか秀逸でございます。

まあ、元々、作曲家志望で、肉体的、精神的にきついライブツアーを好んでいなかったドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの作ったスティーリー・ダンですから、アルバムデビューの頃から基本はアルバム作り、レコーディング主体のグループで、デビューアルバムからスタジオミュージッシャンの起用というのは頻繁で、こちらのアルバム「プリッツェル・ロジック~さわやか革命~」(Pretzel Logic,)もご多分にもれず、メンバー以外に、あの!エリック・クラプトンの「愛しのレイラ」のデレク&ドミノスはじめ多くのセッションをこなしていたドラマーのジム・ゴードン、この後、ボズ・スキャッグスのアルバムでも仕事をし、その後トトを結成するドラマーのジェフ・ポーカロ、キーボードのデイヴィッド・ペイチ 、イーグルスに加入する事になるベーシストのティモシー・B・シュミット等、多くのミュージッシャンが参加しております。

この多くのスタジオ・ミュージッシャンを起用するドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーのアルバム、楽曲作りのやり方は、御本人達が演奏に加わらなければ、ザ・モンキーズやモータウン・レコードと同じようなソレで、演奏に加わっているから、ある時期からブライアン・ウイルソンのザ・ビーチボーイズに近い、別段、目新しい方法論ではなく、アメリカでも日本でもよくあるやり方だったのですが、当時はスタジオミュージッシャンブームであり、情報も乏しい時代だったので、何かマジック、手品のタネを「自分だけは知ってるんだぜ」みたいに、得意になって語ってるマヌケな若者も多かったですね(笑)。

まあ、唯、このやり方をやられると、バンドメンバーは自分の存在価値に疑問を感じるようになり、ザ・ビートルズが解散間際そうだったように、ライブをやらずポール・マッカートニーが他のパートまで多重録音したりするスタジオレコーディングだけの活動になると(皆が嫌がる中、ライブをやろうと言っていたのもポールでしたが)、揉めるわけで、、、それを割り切ってる!ミュージッシャンではなくロックスター、アイドルなら良いのですが、やはりバンドとしては無理が生じるので、スティーリー・ダンが、ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの二人だけになり、後は全員スタジオミュージッシャンになるのは、当然の成り行きだったかなと、、、。

というわけで、こちら凄まじい邦題のついてた(笑)アルバム「プリッツェル・ロジック~さわやか革命~」(Pretzel Logic,)は、多くの外部のミュージッシャンを起用しておりますが、バンドとして成り立っていた時代の、スティーリー・ダンの傑作アルバムでございます。






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レオン・ラッセル ジャンピン・ジャック・フラッシュ Jumpin' Jack Flash/Young Blood - Leon Russell (Concert For Bangladesh) [レオンラッセル]





インターネットだYouTubeだのの今を思うと、音楽情報などないに等しかった(笑)1970年代。新宿武蔵野館で観た1971年制作の、チャリティ・コンサート「バングラデシュ難民救済コンサート」を収録した記録映画「バングラデッシュのコンサート」は、それはそれは!衝撃でありました。なんたってザ・ビートルズ解散劇から時間もたってない頃、動くジョージ・ハリスンやリンゴ・スター、当時カリスマギタリスト!そのものであったエリック・クラプトンが劇場で観れたのですから。

蒼き当サイト運営者はレオン・ラッセルという名前、人を知るのはこの映画が初めてであり、ボブ・デュランはガロの「学生街の喫茶店」の歌詞で知ってましたが(笑)、こちらも動くデュランを観るのは初めて。ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターは勿論の事、私的に印象深かったのは、やはりエリック・クラプトンの「いい男ぶり」と(笑)、レオン・ラッセルでしたね。

「ロック映画は当たらない」という映画業界で悪い風評を作ってしまった、鳴り物入りでロードショー上映した、かの有名な「ウッドストック」、ザ・ローリングストーンズの「ギミーシェルター」、ウイルソン・ピケットやサンタナ等が登場した「ソウル・トゥ・ソウル 魂の詩」、「フィルモア最期のコンサート」が、軒並み!商業的にはコケていたリアルタイム、ザ・ビートルズの「レット・イット・ビー」、エルビス・プレスリーの「エルビス・オン・ステージ」(オンツアーも)と共に、ロック映画では商業的に大健闘した「バングラデッシュのコンサート」は映画だったと記憶しております。



で、何故?イギリスのザ・ローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」(Jumpin' Jack Flash)を、アメリカ人のレオン・ラッセルがカヴァーしたのか?不思議な気分でしたが(ヤングブラッドとのメドレー)、後追いで、ストーンズやザ・ヴェンチャーズ、ジ・アニマルズのレコーディングセッションに参加していた、レオン・ラッセルは有名なセッションマンでもある事を知ったり、当時、日本でその人気がブレイクするとっかかりであったカーペンターズの「スーパースター」(アメリカで大ヒットしカーペンターズの名を一躍有名にした!クロス・トゥ・ユーは、リアルタイムは日本ではヒットしていない。スーパースターの大ヒットの後の後追いで認知されました)もレオン・ラッセルが作ったと知ったり、映画「バングラデッシュのコンサート」は、色々な事を、蒼き当サイト運営者は教えてもらった、想い出深い映画であります。

結局、この時期、酒とドラッグとセックスの日々の「引き蘢り」生活をしてたエリック・クラプトンは数年後、レオン・ラッセルの仲間のベースのカール・レイドル等と、自身のソロ活動を再開し再び脚光を浴びるわけで、カーペンターズの「スーパースター」もそれ以前にエリック・クラプトンとデラニー&ボニーがレコーディングしていた曲だったとか、又、ジャズギタリストの雄!ジョージ・ベンソンのバカ売れしたアルバム「ブリージン」でとりあげた「マスカレード」もレオン・ラッセルの曲だとか(カーペンターズもカヴァーしてますが)、バッドフィンガーのヒット曲「ウィズ・アウト・ユー」もレオン・ラッセルの曲だと知ったり、まあ、レオン・ラッセルには、随分、70年代、勉強させていただきました。







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