CREATION FELIX PAPPALARDI / DREAMS I DREAM OF YOU 夢の彼方に [クリエイション]
1976年、77年、音楽雑誌「ミュージックライフ」誌、国内ギタリスト人気投票で2年連続1位、78年2位(1位はチャー、竹中尚人氏)と、当時の日本のギターキッズ達のカリスマ的存在、竹田和夫氏率いるクリエイション。
またバンド、クリエイションも同「ミュージックライフ」誌、国内バンド人気投票で76年1位、77年、78年連続2位(77年は紫。78年はバウワウが1位)と人気バンドだったわけで、75年、後楽園球場で開催された内田裕也氏主催の「ワールドロックフェスティバル」(ジェフ・ベックも出ました)で、かの若きエリック・クラプトンが在籍していたクリームのプロデュサーとして、また、あの!「ウッドストック」にも出演、映画「バニシング・ポイント」の挿入曲にもなった「ミシシッピ・クィーン (Mississippi Queen)」の大ヒッットで、古のロックファンにはお馴染み!70年代初頭のアメリカンハードロックの雄、一時代を築いたマウンテンのベーシスト、フェリックス・パッパラルディとの競演。
翌76年、当時の日本人、日本のバンドとしては画期的な、アメリカでそのパッパラルディのプロデュースでアルバム制作、そしてアメリカツアーをパッパラルディと行ない、日本のロックバンドとしては初めて日本武道館で凱旋帰国ライブを成功。翌77年には全日本プロレスのファンクスのテーマに、クリエイションの「スピニングトーホールド」spinning toe holdが起用され、これから全日本プロレスはレスラーにテーマ曲をつけるムーブメントが生まれた、正に!クリエイションはあの時代の寵児でありました。
こちらはそのクリエイションとパッパラルディの美しい名曲!「DREAMS I DREAM OF YOU」「夢の彼方に」。
が、しかし音楽関係者、ロックキッズ達の熱いソレとは違い、当時のマスメディアは所謂「歌謡ヒット」のない、芸能活動をしていない日本のロックバンドには冷淡であり、クリエイションに限らずサディスティックミカバンド、四人囃子、シュガーベイブ、カルメンマキ&OZ等、当時の日本のロックバンドは巨大マスメディアのバックアップを殆ど得る事が出来なかったのが実情で、キャロル解散後、怒濤のライブ数とパフォーマンスで快進撃を開始し商業的に大成功する矢沢永吉氏も、それはこの頃からがスタートであり(矢沢永吉氏の初日本武道館公演は1977年)、既にロックファンの間では有名だった若きチャー、竹中尚人氏が、ああいう形の歌謡芸能界デビューを決断したのは、そのへんのジレンマだったというインタビューは、音楽雑誌で竹中氏の言葉で幾度か紹介されております。
クリエイションは1977年、ベースに元フリー、フェイセズの山内テツ氏、キーボードに柳ジョージとレイニーウッドの上綱克彦氏を加えオーストラリアツアーを敢行、共演バンドはサンタナ、この年、「噂」でアメリカで年間アルバムチャート1位を獲得、人気絶頂だったフリードウッド・マック、そしてリトル・リバー・バンドという凄い顔ぶれ。
7~8万人単位と伝わるオーディエンスを前に「クリエイションは健闘したが、日本では例によってニューミュージック旋風が吹き荒れ、ほとんど報道されなかった」(By内田裕也氏、オフィシャルサイトより引用流用)の言葉通り、歌謡芸能ヒット以外、全く興味を示さなかったマスメディアが無視を決め込んでいた以上、コアなクリエイションファン、竹田和夫氏フリーク以外、この快挙を今の初老中高で知る人はとても少ないのは、本当に残念でございます。
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